古い手帖を整理していたら、過去の記念日をメモしたページが出てきた。
ひさしぶりに、1983年の3月18日のことを思い出した。
その日、1983年3月18日の夕方4時、新宿紀伊國屋本店の洋書の階で、夏から伴侶となるエレーヌと待ち合わせしていた。
エレーヌと、はじめてふたりだけで会うことにした日だった。
彼女とは、その数年前に鎌倉で出会っていた。
大学の哲学の先生が、学生たちを集めて鎌倉散歩を催した時に、先生の知りあいということでエレーヌも来た。
日本語とフランス語とでいろいろ話したが、それだけのことだった。
こちらもフランス文学や哲学を学んでいたし、のちのち役に立つこともあるかもしれないので、電話番号だけ聞いておいた。
しかし、それっきり、何年もエレーヌのことは忘れてしまっていたし、電話をかける必要もなかった。
1983年の3月のある日、眠りから覚める時に、男のはっきりした声で、宙からこう言われた。
「エレーヌさんに電話しろ! すぐエレーヌさんに電話しろ!」
冗談のようだが、本当の話だ。
その日のうちに電話した。
今日や明日は用事があるので、それでは18日に、とエレーヌが決めた。
1983年の3月18日、シャツの上に白い厚手のセーターだけを着て、ぼくは出かけた。ジャケットを着るほど寒くはなく、また、ジャケットを着ると暑すぎると感じる日だった。
新宿紀伊國屋には、すこし早めに着いた。
地下の奥にトイレがあるので(今でも、まったく同じかたちである)、先に寄っていこうと思った。
2階へ上るエレベーターをふと見ると、上がっていくエレーヌの背後が見えた。
あ、エレーヌさん、来たんだな。あまり待たせないようにしないとな。
そんなことを思いながら、ぼくは地下のトイレに向かった。
すこし後で、たしか当時は8階だったと思うが、洋書の階に上がっていくと、エレーヌはフランス語の雑誌を読みながら待っていた。
きょう、2022年3月18日、こうして39年前の3月18日のことを、ありありと思い出してみている。
おととい、まったくの偶然から古い手帖を整理していて、3月18日という特別の日を思い出したのだが、きっと2010年に死んだエレーヌの側から、懐かしみの波が下りてきたのだろう。
このことを人に話す時には、なんどもくり返してきたが、目覚める時に男の声で、
「エレーヌさんに電話しろ! すぐエレーヌさんに電話しろ!」
と強く命令されたのは、本当のことだ。
エレーヌに電話した時も、
「こんなことを言うとヘンに思うでしょうけれど、男の声に命令されたんです。あなたにすぐ電話しろ、というんです・・・」
と、奇妙な言いわけめいたことをしゃべった。
カミュの『異邦人』のムルソーの名文句、「私のせいではないんです」のようなことを自分が言っているな、と思った。
エレーヌは、このことをまったく疑わなかった。
「この世ではいろいろなことがあります」
不思議な話が出ると、彼女はいつもこう言ったし、この態度は死ぬ時まで変わらなかった。
じつはエレーヌのほうでも、ぼくの出現を予期していた。
だれか、若い男が近づいてくる、という強い予感があって、トーマス・マンの『ベニスに死す』を読みながら、そうした出現を確認しようとしていた。
もちろん、ぼくのほうは、あの小説の美少年タッジオとは比べるべくもなかったけれど、エレーヌにとって決定的な存在となる点だけは、共通していたといえる。
エレーヌは定期的に霊能者のところに通っていて、いろいろと導きを受けていた。
その人のところへは、ぼくも何度か言ったことがある。
六本木の、俳優座劇場やアマンドのある交差点から、防衛庁本庁檜町庁舎(現在の東京ミッドタウン)を過ぎていったあたりのマンション内の一室を祈祷所としていて、神林栄風と称していた。
マンションは、たしか現在もあるフォンテ六本木か、その隣のマンションだったと思う。エレーヌと行った時、隣りあうマンションのどちらだろうか、と何度も迷った経験がある。
ひとりで生きるのがエレーヌ自身にはふさわしく思え、とてもではないが、男性とはつき合えないし、ましてや、いっしょには暮らせない、と、その霊能者には言っていた。
しかし、神道系のその女性霊能者は、
「それはあなたの自由ですが、その人とつき合わないのはとても残念です。何度もの生まれかわりの中での、たいへんな損失となります」
と、むしろ、後押しするようなことを言った。
エレーヌが、男性と関わるのに逡巡するのには、理由があった。
過去にふたりの婚約者がおり、破談にしていたのだ。
どちらもパリの大学の医学部で知り合ったフランスの医学生で、裕福な家の息子たちだった。ふたりとも、後に医師になった。
つき合いを申し込んでいた男たちはさらに多かった。中には、城や屋敷を持っている老人もいて、レストランで食事をするたびに、宝飾品をプレゼントしようとした。
しかし、エレーヌが20代や30代だった時代、フランスでさえも女性はそう自由ではなく、裕福な家に嫁いだら、義母や家のしきたりの奴隷になる他なかった。
婚約者のひとりはベトナム人で、結婚したら大家族をエレーヌに任せたい、特に、もちろん父母の世話を見てもらいたい、と言っていた。
もうひとりの婚約者はフランス人で、その母親とは気が合ったが、それでも家に招かれてのディナーの際には、バナナや桃を出されて、それをナイフとフォークでうまく剥いて食べられるかどうか、エレーヌに試験したりするのは当たり前だった。
なにより自由を求め、じぶんの好きな勉強や読書や映画や観劇を続けることを大事にしたエレーヌには、このふたりの婚約者たちの家のどちらも、耐えがたかった。
そんなエレーヌが、完全に生き方を変えることになるのが、1983年だった。
41歳だった。
ぼくのほうは23歳。
日本在住のフランス人やヨーロッパ人たちの間では、18歳の歳の差のあるぼくらは、奇跡的なカップルの象徴と見られていた。
エレーヌの親しかったフランス語教師ジョルジーヌ・ヴィニョーや、ラ・クロワ紙の特派員で、ジョルジュ・ビゴー展を企画・主催したエレーヌ・コルヌヴァンなどとは年中会っていたので、彼女たちがどんどんとぼくらの話を広げてもいた。
ジョルジーヌは、西武百貨店のパリ事務所のメンバーのひとりで画家だった岩田滎吉(エルメス、ヴィトン、サンローランなどのブランドの日本への導入に力があった)や三宅一生のフランス語の先生でもあったし、1980年代まででは、東京では有名なフランス語教師だった。ジョルジーヌのところで時々開かれるパーティーでは、今も岩波文庫にラ・ロシュフーコーの翻訳がある二宮フサさんもよく来ていた。渡辺一夫の後継者であるフランス文学者二宮敬の妻で、当時は東京女子大の教授だった。
1983年3月18日は金曜日だった。
金曜日の夕方の新宿は、人通りが多かったように記憶している。
最近のインターネットというのは便利なもので、この日のことを調べると、何日が経過したかさえ出てくる。
14245日が経ったらしい。
そんなに経ったか、と思う。
それだけしか経っていないのか、とも思う。
(この文章は、ブログ『エレーヌ・グルナックの思い出』にも掲載した)
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