2022年5月11日水曜日

窪田般彌さんのショートケーキ

  

 


わたしが言葉並べを意識的にはじめた頃

ポスト・モダンと呼ばれる風潮が知的世界を領していて

作品を書くとか作るなどという言い方や考え方はバカにされたし

小説や詩などという既成の形式を鵜呑みにするのも

精神の凡庸さの証しとされていた

 

それでも書いたものをどうにか呼ばねばならないので

苦しまぎれにエクリチュールと呼んだり

言葉ならべと呼んだり

言語配列と呼んだりした

わたしが今でも言語配列や単語並べなどと呼ぶのは

ポストモダン時代の先鋭な批評家たちへの配慮から来るのであり

忖度でもあり尊敬でもある

 

あのポスト・モダンの激烈な知的革命の時代は

あまりに高度で難解なレベルまで達したがために

その後現われてくる物書き趣味や思考趣味の99%が脱落した

自分の書きものを恥も外聞もなく作品などと呼んだり

小説を書いたとか詩を書いたとか

どこでどう羞恥心を落っことしてきたのだか

平然と口にできる自称詩人や自称小説家の大量発生がはじまって

ほんの数年で知の王政復古は発生してしまうのだと

心底驚かされた

なにせドゥルーズもデリダもヘーゲルもマルクスも読んでいない連中が

詩人です詩を書きましたあなたも書くんですか

へええ難しい言葉使いますね

などと平気でこちらに口を聞いてくる

ロラン・バルトをベースにしていないどころか

ポンジュもミショーもルネ・シャールも通過していない連中が

中也や朔太郎ほどの韻律の芸もないというのに

いっぱし詩人のふりをして詰まらない日本特有の通俗思考を書く

金子光晴なぞを話に出すとそんなマイナーな皮肉屋など知らないと来る

馬鹿は自分が馬鹿だとわからないから馬鹿だと言うが

西暦2000年に入ってからこの馬鹿大量発生はふいに顕著になっ

 

馬鹿の時代は今も続いているどころかさらに強力な流れとなってい

このあいだヘンな話を持ちかけてきた青年など顕著な例だろう

大学の卒論で詩論を書きたいというからイインジャナイノ?と答えたら

参考文献としてどんなものを見たらいいか教えてくれと来た

まとめ風の詩論書籍もあるがそういうものはつまらないし

だいたい詩論を書きたいというのなら好みの詩人たちそれぞれの詩論を

エッセーや書簡集や討論などの中で読んでいるはずだから

それらを使って考えていけば地道な論が作っていけるだろうと言ったら

そういうものは一度も読んだことがないと来る

え?有名ないろいろな詩論があるけれども

ロートレアモンの「詩学Ⅰ・Ⅱ」とか

キーツの消極的受容力論やランボーの見者論とかとかとかとか

まったく触れたことないの?(まさかね・・・)と聞いたら

まったく触れたことなどないと言う

ええええええええ?じゃあどんなものを読んできたの?好きな詩人は?

と聞くと学校の教科書とかでちょっと読んできただけなんですけれ

と来るからえええええええええええええ!と思ったけれど

あの・・・それって・・・読書量が徹底的に決定的に足りな過ぎじゃないの?

まずは数十人の詩人の本を読むぐらいしないと始まらないよ何も

と厳しいことを告げたら聞きわけはいいのでそこは分かってくれて

ホナ頑張ってくださいということで緩やかな流れにリリースしたわけだが

こんなふうにロクスッポ詩も読んでいなくて

詩論になんて触れてもいない人が

卒論で詩論を論じるのだ!と思ってしまうっていうのは

何なんでしょうか?

 

もちろんアリストテレスやホラチウスの詩論も勧めておいたけれど

あんなものを読む以前の段階にあるのでまどみちおなんかのほうが

勧めておくのにはよかったかもしれない

わたしの遠い先生のひとりの窪田般彌さんが新倉俊一さんと作った

『世界の詩論』も勧めておいたけれど

あれをちょこちょこ切り貼りしてなにか論じられる器量も

まあ

ないだろうしなァ

 

そういえば

窪田般彌さんは

はじめて会った時にショートケーキを出してくれて

なかなか手をつけないでいたら

「ほら、はやくお食べよ」

と勧めてくれた

 

日夏耿之介なども

学校にはなかなか教えに出てこないくせに

気に入った女子学生たちを家に呼んでは

ケーキを出してあげていたそうな

これも

窪田般彌さんからの話

 

昔は

大学生なんてのは

ろくに語学ができないのに

かっこ付けて知ったふりばかりするもんでね

「おい、なんてったって

いまは小説といえばアンドレ・ガイドだぞ」

なんて言って

André GIDE(アンドレ・ジッド)を英語読みして自慢してみたり

詩といえば

やっぱり

アーサー・リンバウドだろうさ

なんて

Arthur Rimbaud(アルチュール・ランボー)

やっぱり

英語読みしてみたりしてたんだよ

馬鹿ですね

 

これも

窪田般彌さんからの話

 

日夏耿之介先生が早稲田に講師に来た時なんかね

大詩人日夏耿之介来たる!

なんて

旗立っちゃったりしてね

でも

日夏先生

来ないんだよ、なかなか

何週間も来ない

ある日

今日はとうとう日夏耿之介来る!

と話が広がって

大教室に学生がワッと集まってね

ついに話が聞けるぞ

なに話すんだろう

なんて

シーンと静まりかえって待っている

そこに

ついに日夏耿之介先生ご登壇

椅子に座り

教卓に肱をついて

話すかな?

話すかな?

と待っていても

まだ話さない

なにも話さない

ついに

手をこめかみに持っていって

ひと言

「・・・アタマが痛む」

そうして

おもむろに立ち上がると

教室を出て行かれてしまった

ところが

天下の日夏耿之介先生だから

「・・・アタマが痛む」

だけで

もう学生は大感動しちゃう

「すげえなあ、アタマが痛む。だってさ」

「アタマが痛む、だぜ」

「すげえなあ」

なんて

馬鹿ですね

 

これも

窪田般彌さんからの話

 

西脇順三郎といえば

慶応大学の至宝みたいな詩人だが

慶応で教える時は

いつも苦虫噛みつぶしたような

不機嫌な

つまらなそうな顔だった

ところが

早稲田に教えに来た時は

なぜだか

明るい楽しそうな顔で

うれしそうにしゃべる

そう聞いた慶応の学生たちは

おかしいなあ

なんでかなあ

と訝しく思うわけだが

なんででしょうね

早稲田は馬鹿学生が多いから

なんか

楽しかったのかもね

 

これも

窪田般彌さんからの話

 

なんだか

窪田般彌さんの話を思い出したあたりから

この自由詩形式使用言語配列は

論旨みたいなのが反転してしまいましたな

 

いっか

 

自由詩形式は道草であり

一行先

一語先

なにが生来してくるかわからぬ

冒険の世界ですから

 

 




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