2022年8月3日水曜日

この〈自由詩形式なわたし〉


 

「市民諸君! 他の者たちときたら、なんともまあ、諸君にへつらい、おもねった計画を描いてみせていることか! しかし、この私は、諸君にとって有益な真理を語りに来たのだ!」

 ロベスピエール、

   1794年テルミドール8日(726日) 国民公会での最後の演説

 

 



 

生活と同じように

政治や社会は万人が参加させられているものなので

それらに対する意見表明や批判の権利は

万人が等しく有している

政治家や官僚や行政に関わる公務員

政治学者や社会学者

あるいは政治や社会を対象とするジャーナリストだけに

意見表明や批判のマイクが委ねられるようでは

憲法に基づく法治体制の基本精神が毀損されてしまう

多少なりとも

政治や社会に専門的に関わるそうした者たちは

専門的に関わっているわけではない他の国民を代弁するのでなけれ

そもそも存在意義がないのでもある

 

自由詩形式の中でのみ言語配列をする

この〈自由詩形式なわたし〉は

もとよりこの自由詩形式が政治空間そのものに属するのでもなく

社会空間そのものに属するのでもないゆえに

政治空間や社会空間で発生する事柄について

しかるべき真っ当な取り上げ方をするつもりもないし

しても来なかったし

今後もしていくつもりもない

自由詩形式の発生と定着は

〈わたし〉の見るかぎり

十九世紀末から二十世紀はじめの深刻な政治的絶望に対する

知的レベルにおいても

繊細さにおいても

想像力においても

相当に秀でた人たちの最後の言語的抵抗によるものだった

もとより自由詩的言語表現とは地上の最果ての最後の極北の場所である

幸福な満ち足りた者たちは自由詩的言語表現などしない

もし言語表現を彼らが行なうなら

見よう見まねで

おそらく古典的な形式に従った定型詩的表現を採るだろう

〈自由詩形式なわたし〉は

敵の本丸の内情を見定めるべく

長期に亘って

日本語の定型詩的表現の典型のいくつかへの潜入も行なった

そうして

〈定型詩形式なわたし〉をも

それらの表現形態の中に住まわせることに成功した

あたかもカルト集金宗教が白蟻のごとく

日本国憲法空間の中にあまねく巣喰い

建材のあらゆるすべての箇所を侵蝕し糞だらけにしたように

 

自由詩形式はつねに

「~だ」を逃れ続け逸れ続けるところに本性がある

これだけは十九世紀末から脈々と生き延びてきている自由詩形式霊体で

どのような入口やどのような理由からであれ

自由詩形式に流れついた者たちの精神に共通している

彼らは自由詩形式者なのであっていわゆる詩人でさえない

言葉を使うのもとりあえずの便宜的かつ一時的なもので

もし電波や原子や光や素粒子で同じことができるのならば

彼らはすぐに媒体を交換し続けていくだろう

 

こういう自由詩形式をカラダとする

〈自由詩形式なわたし〉は

これも十九世紀末からの所作のまねびというべきだろうが

政治空間や社会空間で起きたことについては

いわゆる「斜に構える」やり方や

いわゆる「イロニーに満ちた」やり方や

いわゆる「冷笑的な」やり方で

わざと断片的な

わざと仄めかし的な

わざと舌っ足らずな言い方で

それとなく触れたり

寓話のように語ってみたり

子供のようにアラレもないおふざけをしたり

オヤジギャグを故意に不味く嘆かわしく連発したり

かと思えば

ふいに畏まって

象徴的に短めにギュギュッと表現しようとしてみたりしてきた

十九世紀末の諸先輩たちは

みな

そうやってきたのだ

普仏戦争時のパリに向かったアルチュール・ランボーは

ポール・ヴェルレーヌとともに赴いた

ベルギーやロンドンで

パリ・コミューンの亡命者たちに会っている

コミューン革命の熱烈な支持者だった

身長177㎝のこの少年

ランボーの政治的言説は

『地獄の季節』には全く痕跡を留めないし

『イリュミナスィヨン』にも

わかる人にはかろうじてわかる

仄めかしとしてのみ

思想的かつ経験的流星の軌跡が残るばかり

 

そのランボーと1872年に

短い期間ながらたびたび会った

12歳上の

いまとなっては

政治と無関係と見えるステファヌ・マラルメでさえ

ジャック・ランシエールが述べるところに従えば

ドレフュス事件におけるゾラを支持し

アナーキストによるテロを理解しようとし

革命から第三共和政に到る政変の時代にあって

大衆文化の勃興や宗教的権威の失墜をまともに引き受けながら

文学領域においては

自由詩形式の勃興に直面しつつ

定型詩の規範の相対化を考究せざるを得なかった

形而上学的危機を経験した際に

「幸いにもわたしは完全に死んだ」

と吐露するに到ったマラルメは

生まれ持っての才気で

凝縮された詩を

やすやすと

高雅に残して逝った…などという

閑人では全くなかった

 

詩歌とはかくまで

政治空間の重力を受けとめ続ける精神の運動だが

長い政治詩を多量に残したヴィクトル・ユゴーに到っては

いうまでもなく

詩歌は政治空間そのものである

 

〈自由詩形式なわたし〉は

ところで

なにに向けて

単語配列をしていこうとしているのだったか?

 

あゝ

そうだ!

 

歴史的にも機能的にも精神的にも

政治空間の正論や

社会空間の正論と向きあうことに全く適していない

〈自由詩形式なわたし〉でさえ

自由詩形式をたびたび今後は脱ぎ捨てて

政治空間における正論へと単語配列をしていかねばならないのではないか

と思えてならない

ならない

ならない

と単語配列しよう!

しよう!

しよう!

単語配列リビドーが蠢いて仕方がない

 

立憲政治を謳うのならば

おぞましく隠微な捏造された迷信を淫猥に押し戴くような

汚らしい個別特殊拝金宗教を政治空間の場に蔓延らせてはならない

そもそもこの列島の空気の中には

でっち上げの劇画型神話空間が微に入り細に入り蔓延っていて

あらゆる面が反日本国憲法的となっており

あらゆる面がカルトとなっている

そういう妄想を野放しにしているのが

すべての元凶なのだ

神や霊を語るもの

騙るもの

それらすべてを精神と政治の機構から拭い去らねば

人間の世は始まらない

 

まことにまことに

この列島では

いまだ

一度も人間が生まれたことがないし

生きたこともないと言える

人間とは

自分たちで捏造した神(とやら)を利用して

我田引水行為にのみ汲々とする下等動物と縁を切った者たちを呼ぶ

 

 






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