2022年9月15日木曜日

もちろんぼく(ら)には策略がある

 

 

 

詩を書いています

とか

詩人です

とか

 

そんなことを言わないようにして

しかし

自由詩形式と

日本での定型詩の代表形である短歌形式を

長い年月

使い続けてきてみた

 

ここには

もちろん策略がある

 

1990年代以降の

日本における詩の扱われ方

とりわけ

その極端な衰退

共感者の過度の減少

それを観察し続けた上で

モダニズム詩や

シュールレアリズム詩に感性的な傾きのある自分が

どのように

言葉ならべをしていけるのか

いけないのか

数十年にわたる実験を続けてきた

 

このあたりのことは

言いはじめれば

無限に語り続けることになる

 

1980年代から1990年代

さらには

2000年代

ぼくのまわりでは

思い切って金をかけて詩集を出す人びとや

歌集を出す人びとが

いっぱいいた

すでに詩歌の時代は過ぎ去っているのに

わからないでいた人びと

小説の時代さえ

底から崩れていっていたというのに

わからないでいた人びと

 

そういう人たちが

どのように残っているか

彼らの出した本が

どのくらい残っているか

見まわすと

いま

もちろん

ほぼ全消滅している

本を出した人は金と労力をムダに失って

本など出さなかった人と

まったく同じ無痕跡に落ち着いていってしまったことになる

本など出さなかった人のほうが

金をムダにしなかった分

社会生活では勝ったことになる

 

多少なりとも

詩歌の世界からそれ以外の世間に

名のうっすら残っている人は

団塊の世代までの人

 

現代日本の詩歌はあぶないぞ

団塊の世代の一部までのみを残そうとする

数世代の陰謀だぞ

その下の世代は御神輿を担がせられ

忖度ばかりさせられて

ただでさえ売れない詩歌本を次々とバカのように買って

まるで

革マル派や中核派の

団塊の世代連中の年金を

若い世代の連中が担ってやっているようなぐあいで

ようするに

詩歌ばかりか

文芸全般が

老いゆく極左連中の介護と同じ状況に入っていっている…

ぼくはずっと

こう観察してきた

 

やがて

紙媒体で雑誌を作ったり

冊子を作ったりすること自体が

ムダ過ぎるというより

リサイクルゴミに出す労を人にかけてしまう時代に入り

ぼくはサッと紙を捨て

メール配信に切り替えた

メールだと人は迷惑メール設定にすればいいだけなので

簡単に処分できる

それだけでも配信先の人たちへの配慮というもの

紙媒体のものは

封筒の口をハサミやナイフで開け

内容物を取り出し

サッと見て

リサイクル用の紙ゴミを置くところへ持っていくことになる

かかる時間は数分だとしても

これが何年も何十年も続くとなれば

大変な時間的・労力的損失を引き起こしてしまう

なにより大量の紙媒体を郵送されていたぼく自身が

ひどく困っていた事態だ

 

いまでも紙媒体で

人にものを送ったりしている人は

時代の幾重もの変化の最初の波を

いまだに乗り越えられていない人たち

もう終わっている

いくらなんでも

もう終わりすぎている

あなたの紙媒体に時間を労するほど

みなさん暇だと思ってますか?

なのである

 

詩歌は書くべし

どんどん作るべし

しかし

絶対に詩集や歌集は作ってはならない

奇特な出版社が

ぜんぶ自社持ちで本を作るというのなら

その場合は作ったらよろしい

その際にはその出版社持ちのブランドのひとつとして

せいぜいよく売れる商品を作っていったらよろしい

資本主義後期どころか

資本主義崩壊期

資本主義変容期の詩歌書きは

最低限こうしたコンセプトを持ってやっていかないといけない

売れないものを本にする

などという異常さが

だいたい

どうかしているのだ

ただの無料配布のパンフならいい

しかし

値段をつけたり

バーコードをつけたりする商品を作ると決めたら

それは絶対に売れないといけない

利益率をどう設定するか

そこから経営学的考察に入らないといけない

こう言うと

詩歌が売れるはずないだろう

などと

平気で返してくる人がいる

なにをバカな!

商品を作るならば売れる商品になるべく

最初のコンテンツから売れ筋にするための構想しなければいけない

書きたくもないことを

さももっともらしく書くことで

商品はできあがっていく

マーケティングをちゃんとして

どんな単語をどう並べれば

最近の若い子は反応してウッカリ買っちゃってくれたりするのか

そこからしっかり商略を立てないといけない

 

ぼくは大学の授業も

マーケティングにしっかり利用してきた

テーマを自由に設定していい多人数講義で

現代詩を扱ってみたこともある

500人相手に

現代詩界隈では有名な作品を印刷して配り

とにかく読んでもらい

朗読したり

説明したり

意見を聞いたりしてきた

2000年代の段階で

すでに反応は絶望的だった

時代をグッと後退させ

宮沢賢治や中原中也や萩原朔太郎や島崎藤村などを読ませると

詩歌に親しんでいない若者たちにも

いきなり反応はよくなる

どうやら

現代詩と呼ばれたひとかたまりの時代と

そこを満たしていたコンテンツが

まるごと忌避される時代に入っているな

とザッと判断せざるを得なかった

2000年に入ってからの若者の大半は

もう現代詩とその後流の読者には成っていかない

しかし一方

詩歌への反応が失せてしまったわけでもなく

もっと余韻のあるもの

もっと古風なもの

もっと心を遊ばせてくれるもの

などには

それなりの反応は続いていきそうな気配があった

これを

保守化と呼んでしまえば

呼べないこともない

しかし

田中冬二や立原道造や津村信夫のほうがいいなあ

などと感じるのを

保守化と断じて

それで済ましてしまっていいのか

そう簡単ではないだろう

 

極めつけは

CDをかけて聞かせた吉増剛造の朗読だった

詩集を

何ページもコピーして

テキストも見えるかたちにして

けっこうな時間

『石狩シーツ』の朗読を聞かせた

 

結果は散散だった

わからない

というのはもちろんいいほうで

気持ち悪い…

どうしてこういう異常なものが詩とか呼ばれるのか…

二度と聞きたくない…

こんな醜いものを聞いたことはない…

などなどの大合唱となった

 

2000年に入ってから

若者の感性世界であまりにはっきりと変質したものの一端を

うまくマーケティングできた

とぼくは思った

なにかが完全に終わっていて

もうどうにも後戻りできない感性の変化が起きている

これに対してガタガタ批難しても

ドストエフスキーの『悪霊』の

ステパン・トロフィーモヴィチ・ヴェルホーヴェンスキーにしか見られない

1945年の敗戦とともに

鬼畜米英がガラッとアメリカ万歳に変わったように

ニヤッポン列島の言語快楽感性は

ガラッと豹変してしまったのだ

かろうじて

茨木のり子や石垣りんなどの言語配列だけが

詩歌として許容される時代に

すっかり変わってしまっていたのだ

 

もちろん

ぼく(ら)には策略がある

 

長い時間

潜伏に潜伏を重ねて

ついに

時来たって

事をはじめたホー・チ・ミンの

あの策略





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