2022年9月15日木曜日

なんと小野十三郎の詩ではなかった

 

 

 

小学校の国語の教科書に

小野十三郎

という人の詩が出てきたら

母が

これは

ママのお友だちだった小野さんのお父さん

と言っていた

 

お話を読むのは好きだったが

詩なんて

まったく興味のなかったぼくには

お友だちのお父さんでも

なんでも

どうでもよかった

 

だいたい

国語の教科書に載っていて

練習問題集とかにも

この人の詩が出てくるわけで

こんな嫌なことって

ない

 

図書室に行って

詩っていうのを見てみたら

マザーグースのこんなのがあった

 

コック・ロビンをころしたのは だあれ?
おれと スズメがいった,
弓と矢で,
おれが ころした。

 

なぁんだ

詩ってやつにも

おもしろいのがあるじゃんか!

 

それ以来

スズメの連中

どうやって

弓と矢なんか

使ったりできるんだろ?

そこらにいる

スズメを見るのも

楽しくなった

 

教科書に出ていた

小野十三郎という人の詩は

 

 さくらの花の散る下に、小さな屋根の駅がある。 

 白い花びらは散りかかり、駅の中は、花びらでいっぱい

 花びらは、男の子のぼうしにも、せおった荷物の上にも来てとまる。

 この村のさくらの花びらをつけたまま、遠くの町へ行く子もあるんだな。

 待合室のベンチの上にも、白い花びらは散りかかり、

 旅人は、花びらの上にこしかけて、春の山脈をながめている。

 

というので

なんだか

老人っぽい心境だな

つまらなかった

小学生の頃のぼくは

桜の花びらは

蹴っ飛ばしたり

追っかけて

蚊のようにピシャンとつぶしたり

とにかく

自分が動きの主体にならないと

つまらなくてしょうがない

というタチだったので

超がっかりな詩だった

しかも

桜をきれいに思ったことなど

なかった

 

ある時

小野十三郎のこの詩を

ちゃんと見直そうと思って

調べてみたら

なんと

小野十三郎の詩ではなかった

阪本越郎の詩で

「花ふぶき」というのだった

 

おかしいなあ

じゃあ

教科書に出ていた小野十三郎という名は

何だったのかな?

と思って

もうちょっと調べると

これだった

                  

  山にのぼると
  海は天まであがってくる。
  なだれおちるような若葉みどりのなか。
  下の方で しずかに
  かっこうがないている。
  風に吹かれて高いところにたつと
  だれでもしぜんに世界のひろさをかんがえる。
  ぼくは手を口にあてて
  なにか下の方に向かって叫びたくなる。
  五月の山は
  ぎらぎらと明るくまぶしい。
  きみは山頂よりも上に
  青い大きな弧をえがく
  水平線を見たことがあるか。

            (「山頂から」)


 

「なだれおちるような若葉みどりのなか」じゃ

「海」が「天まであがってくる」のなんか

見れないじゃないか?

と小学生の時

思った

表現や心情の省略や編集を

小学生のぼくは理解しなかったのだ

 

理解しなかったといえば

なぜ

一行空けとかもしないで

突然

「きみは山頂よりも上に
青い大きな弧をえがく
水平線を見たことがあるか。」

なんて

こっち向かって

しゃべりかけてくるんだろ?

とも思った

それまで

ひとりごとみたいに

しゃべってたくせに

なんで急に?

って

 

句読点があったり

なかったり

そこも

ヘンテコだな

と思った

 

でも

古い詩なのに

この詩では

「ぼく」とか「きみ」とか書いていて

やわらかい新しい人称表記が採用されていて

なかなか頑張っている  

 

いまのぼくなら

「だれでもしぜんに世界のひろさをかんがえる。」の

「だれでも」は

取っちゃったほうが

いいなあ

と思う

 

そうして

書き換えちゃったりする

こんなふうに


   山にのぼる
   海は天まであがってくる
   なだれおちる

 若葉みどり


   下のほう

 かっこうがないてる


   風に吹かれて

 

 高いところにたってて


   かんがえてしまう

 世界

 そのひろさ


   なにか

 下のほうに向かって

 叫びたくなる

 

 手を口にあてる

 

 ぎらぎら


   五月の山だ


   明るい

 まぶしい


   水平線

 

 山頂よりも

 上に
   青い大きな弧をえがいてる






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