2022年12月21日水曜日

「わたし」と無意識のあいだの非連続


  

ジャック・ラカンは

1928

パリ警察の監察医をしていた

ガエタン・ガスィヤン・ド・クレランボー

Gaëtan Gatian de Clérambault

のもとで学ぶことになった

 

このクレランボーの精神

あるいは

存在のしかたと

死に方

の前で

わたしは立ち止まっている

 

数十年

(…細かく分析したり

研究したりしたわけではないものの

心のどこかは

ずっと…)

立ち止まったままでいる

 

そのために

取りかかれないでいる執筆や

スピードを上げて進められないでいる

考察

というものも

たくさん

たくさん

ある

そんなものに

足を引っぱられなければ

いくらでも

テレビ芸者評論家のように

ノーテンキに

しゃべくりちらかせるというのに

 

(もちろん

メラニー・クラインの研究も

遅々として進まず

怠ったままで

精神科医でもないのに…

精神科医ではないのだから…

   と

内なる衝動と「研究せねば」という洗脳を

甘えさせて

弛緩させたままで…)

 

クレランボーは

精神自動症の研究者だった

 

精神の中には

個人を超えた自動的な観念運動が

存在する

 

シュールレアリストたちは

無意識の概念に関係させて

これを理解する

自動書記の淵源であり

理論的支柱となりうる

 

クレランボーは

しかし

精神自動症は

脳の器質的障害から

生じる

と見ていた

 

そのため

彼は

アンドレ・ブルトンの論敵

となった

 

ピエール・ジャネなど

フランスの医学心理学の学者たちは

無意識や下意識

潜在意識

などを

個人や社会の意識において

連続したものと

捉えようとしていた

 

クレランボーは

しかし

そこに不連続を

見出そうとしていた

 

無意識というものが

話に出ると

それを統合することで

「わたし」がより全体的な存在になるうる

とか

自己実現に近づける

とか

のんきな精神おとぎ話を

平然とやらかしてしまう

ノーテンキな人びとが

現代でも多い

 

しかし

クレランボーは

「わたし」と無意識のあいだの

連続性を認めない

「わたし」と無意識は切断されており

統合などできない

「わたし」は

わたしの(と「わたし」が盲信する)無意識を

意識することさえできず

意識できたかと思い込む時には

無意識はどこかへ過ぎ去ってしまっている

それはまさに水であり

手で掴んだかと思う間に

指の間から逃げ去ってしまっている

 

にもかかわらず

「わたし」は

肉体の生命の終わるまで

無意識の不可解でわがままな運動と

一瞬一瞬

密に関わりながらしか

生きることが

できない

 

絶望的無意識論

わたしは

よく

クレランボーの思索に

あだ名をつけて

呼んだりしてきた

 

独身のまま

クレランボーは警察署の中に居続け

犯罪者である

精神病者たちを診察し続け

彼らの中にある人間の破壊傾向を

観察し続け

分析し続けた

 

19341117

クレランボーは

鏡を前にし

MAS1892型拳銃で自殺した

 

長年

破壊傾向の顕著な犯罪者たちを

見続けてきた

クレランボーについては

「転移」の発生を見るべきかもしれない

 

他者の中にある傾向が

必要性もないのに

こちらに「転移」してしまう

という

考え方を

精神医学は持っている

 

面白いと思うが

 

さあ

どうかな

精神医学が

ずらっと

取りそろえている概念については

思う

 

思い続けている

 

精神医学の考え方が

こちらに

深く「転移」してしまっているのも

確かかも

とは

疑っている







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