2023年2月10日金曜日

ルラルラルラ


  

東京でも大雪になると予報が出ていたが

たいした雪でもなく積もりもせず

ふつう雪が降らないことから降雪をむしろ喜ぶ東京人にとっては

ちょっとは期待したのにやはり大したことはないと

がっかりを重ねる日となった

 

そもそも都市部での大雪というのは

30センチや40センチを超えた場合のことを言うべきで

めったにないことだからこそそれを大雪と呼んで楽しんだり

不便さや危険をまるごと受けとめての「こりゃあ大変だ…」という嘆息となる

10センチだの20センチだのはふつうの「雪」と呼べばよく

昨今の都市部への降雪予報の大げささはどうかし過ぎている

 

誰もが子どもの頃から雪は何度も経験してきているので

降雪の際にいろいろな注意をテレビやラジオが言うのは余計なお世話である

滑らないように雪の上を歩くことなど誰もが自然に行なうし

長く自動車に乗っていれば降雪の際にどうすればいいかわかってい

ろくな降雪経験もないのに取材に出ている20代の子らから

雪の日の歩き方をあれこれ注意されても年長者には愚かしくしか聞こえない

なにかというと「雪道は滑りやすくなっています」とか

「車の運転にはくれぐれも注意が必要です」とか

釈迦に説法とでもいいたくなるような逆転現象が当たり前に繰り替えされる

 

あらゆる部分で崩壊が顕著になってきている日本では

マスコミによるこんな過剰注意喚起も崩壊現象の一部だと思える

電波に乗せる言葉をもっと他の内容のために使用せよといつも思う

たかが小雪やみぞれがちらつく程度のことを取り上げて

誰でもわかっていることをまるで自分たちしか知らないかのように言うな

20代や30代のお子さまなどこそ怪我しないように注意して雪道をお帰り

棒付きフランクフルトなんか食べながら雪道を歩いたら危ないよ

転んだら喉に棒が突き刺さって大変なことになるんだからね

そんなことで死んだりする子も昔からいっぱいいたんだからね

などとこちらからこそいくらでも無限に注意喚起してやりたくなってしまう

 

日本社会をどんどん脆弱にし破壊していっているのは

ごく普通と見える「善良なる」市民が当然として受け入れている習俗であって

そこを研究し尽くして狙いを定めて認知戦を仕掛けて来られている

社会は一定以上の危険さをつねに維持していなければならず

それらの危険に対して個々が自己防衛するのでなければ国力は衰退する

国力はいかなる場合でも個々人の体力や知力や暴力に基礎を置くものであり

これらを維持し伸長する基本思想がなければ国民も国家も継続できない

国民も国家も継続できないとはどういうことかといえば

今なにげなく記す肩肘はらぬ口語日本語による駄弁や落書きが消滅

奇妙な過剰敬語や「~させていただいております」がデフォルト化し

さらには暴力で世界を支配し続けようとする外国の言葉に

根本的なところから置き換えられてしまうことを意味する

 

言語など所詮伝達用の記号体系に過ぎないのだから

外国語に置き換わったってかまわないではないかというラジカルな発想は

誰よりも私自身のほうがたっぷりと抱え込んでいるけれど

古事記や日本書紀の頃から日本語叙述の中に残されている情報へのアクセスは

やはり可能なかぎりの語彙数と卑語俗語罵倒語などを含めたものとしての

日本語を維持しないかぎりはどうしても不便になってしまう

日本列島に存在した独特な文化体系にアクセスする日本語は

この文化体系読解のための数学というべきで

この数学を失えばここに生じて根付いた知のありようは再利用しづらくなる

 

日本国家や日本国民とは日本語そのものであり

遺伝子や習俗など他の判定要素は捨てたほうがよいと個人的には思うが

維持すべき日本語は現代の奇妙な上っ面だけバカ謙譲化した日本語ではなく

鶴屋南北や河竹黙阿弥の人物たちがしゃべくるルラルラルラとした日本語であり

漱石の『吾輩は猫である』の人物たちの日本語であり

野坂昭如の日本語である

 

 




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