2023年4月2日日曜日

トリストラム、悲しみの子

 


 

トリスタンといえば

『トリスタンとイゾルデ』のあの彼のことで

本を読むのが好きな人や

音楽やオペラや美術を好む人なら

誰でも知っている

オペラを説明した本や

ワーグナー歌劇の台本にも

トリスタンの概要は書かれているもので

アーサー王の国に隣りあった

コーンウォール国の騎士だとわかる

 

ランスロットと並ぶ

アーサー王伝説中の強い騎士だが

とりわけ複雑なカルマを背負わされた人物で

人生がうまく進むかと見えると

すぐに厄介事に巻き込まれ

行くところ苦難が彼には襲いかかる

どうしてだろうと思わされるが

もともと彼の名前自体が

本当は「トリストラム」であって

これは「悲しい誕生」や

「悲しみの子」を意味するから

そもそも名付けられた当初から

運命づけられていたと言える

フランス語では今でも

トリストtristeといえば

悲しいという意味になるが

トリスタンの名はこの語源から来ている

ちなみにイゾルデは

もともとイソウドと呼ばれている

 

込み入ってもいれば

アーサー王伝説のヤマ場の物語でもあるので

ここでトリスタン伝説に深入りはしないが

元はといえばレオノイズという国の

メリアダス王から話は始まる

この王はイサベラを王妃に迎えるが

イサベラは隣国コーンウォールの

マーク王の妹だった

 

ここに気まぐれな妖精が介入する

ある妖精がメリアダス王に恋をしたのだ

狩りに出ていたメリアダス王を

妖精は魔法をかけて連れ去ってしまう

悲嘆に暮れた王妃イサベラは

あちこちに王を探してさまよい

途中で男の子を生み落とし

そうして病んで命を落してしまうが

この子の悲しい生まれ方を思い

イサベラは死ぬ前に「悲しみの子」や

「悲しい誕生」と名づけた

 

王妃イサベラの従者ゴウヴァネイルは

残されたこの子を守り育て

やがてメリアダス王の元へ連れ帰る

メリアダス王はなんとか妖精の魔法を破って

帰国することができていたのだ

 

トリスタンの父であるメリアダス王が

7年後に後妻を迎えて新たな王妃とすると

トリスタンが王に大事にされていることに

この新王妃は嫉妬して殺そうとする

従者ゴウヴァネイルはトリスタンを守り

フランス王の宮廷に逃げさせたので

トリスタンはそこで教養や武芸を身につけ

立派な騎士へと成長していった

 

ところが若く美男子で逞しいトリスタンに

今度はフランス王の娘ベリンダが惚れ込む

だがトリスタンは王女の恋に答えなかったので

怒ったベリンダはトリスタンを陥れて

ついにフランス王の国から追放させてしまう

ベリンダはこれで満足したかと思いきや

トリスタンを失うことになった自分の愚行を悔い

絶望のあまり自殺することになる

溢れんばかりの愛情込めた手紙をしたため

美しい愛犬とともにトリスタンに送り

じぶんの形見として育ててやってほしいと頼む

このあたりはオペラなどには

うってつけの名場面となりそうな箇所だ

 

トリスタン伝説はこのあたりまでが

いわば序章のようなもので

まだまだトリスタンならではの物語は

まったく始まって来ないというのに

すでにしてこんな調子で

幾重ものカルマを背負わされた運命の子たる

手の込んだ仕込みがなされている

物語の登場人物にはこうした仕込みが

どれだけなされるかで深みが決まってくるが

そんじょそこらの近現代小説どころではない

重層的な人物づくりがまさ「トリスタン」なのだ

 

ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』など聴く時は

ここまでのトリスタンの人となりをとりあえず放っておいて

だいぶ後のトリスタンに接していくことになるが

アーサー王伝説のマニアだったワーグナー自身は

十分に知り尽くしたうえでオペラを作っていっただろう

近代のDSたるブルジョワ向きのオペラといえども

味わいの深みまで汲み尽くすのには

なかなか鑑賞者側にも勉強や読書の努力がいるのだ

 

ちなみにコーンウォール国の隣りにあったという

トリスタンの父王レオノイズのメリアダスという国は

大洋の底に沈んでしまって地図から姿を消したという

この話だけからでも大きな物語はすぐに生まれ得るだろう

隣国だったコーンウォール国に残ったかもしれない

古い記録を求めて現代の少年少女が

あやしい行き損ないの大人どもと冒険に出る話など

ハリウッドに持ち込んだら受けること間違いなしだ

 

トリスタンのあの忠実な従者ゴウヴァネイルが

ひそかにしたためる手記や老いてからの昔話なども

なかなか深みのある小説のネタになりそうだし

いい映画にも仕立て上げられそうに思う

少なくともユルスナールの『黒の過程』*

『ハドリアヌス帝の回想』*ぐらい滋味のあるものが

作れそうではないか

 

 

 

*Marguerite Yourcenar Mémoires d'Hadrien 1951, 《L’Œuvre au noir 1968






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