Ⅰ
万葉集巻三「太宰帥大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首」の
大伴旅人の歌に
験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲む
とある
なににもならない物思いをするくらいなら
一杯の濁った酒でも
飲んでいるべきだな
と詠っている
「濁れる酒」は「濁酒」のことで
「ニゴレルサケ」と訓まれた
糟(かす、さけかす、もろみ)をこさない酒のことで
「濁酒」や「にごり」といい
やや粥状になっていて
白酒になる前の酒
万葉時代に愛好された酒だったらしい
他にも
なかなかに人とあらずは酒壷に成りにてしかも酒に染みなむ
(なまじっか人間でいるよりは酒壺になってしまいたい。
あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿に
(ああ、みっともない。
価(あたひ)なき宝といふとも一坏の濁れる酒にあに勝(まさ)め
(値をつけられないほどの宝だって、
夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るにあに及かめやも
(貴重な夜光る玉といっても、
今代(このよ)にし楽しくあらば来(こむ)生(よ)には虫に鳥に
(この世で酒さえ飲んで楽しかったら、
生ける者ついにも死ぬるものにあればこの世にある間は楽しくをあ
(生きている者はついには死ぬと決まっているのだから、
など
有名な歌が並ぶ
大伴旅人酒好き伝説は
これらの歌から
おのずと出てきたものだろう
もちろん
大伴旅人は
単なる酒好きの酔っ払いではない
隼人の反乱の際には
征隼人持節大将軍に任命され反乱鎮圧にあたり
藤原氏との確執を経験し
大宰帥になって太宰府に赴任し
長屋王の変の後は最高位の役人となった
当時の上級官僚を務め続けた
第一級の教養人である
九州南部で発生した
隼人の反ヤマト王権の乱を鎮圧する戦いは
1年半ほど続き
隼人側の戦死者と捕虜は1400人ほどだった
征隼人持節大将軍として乗り込んだ
大伴旅人は
戦いの殺戮の現場や
処刑の現場などを
当然目の当たりにしただろう
詩歌への感受性も強い人が
そういう場所でなにを感じたり思うか
想像に難くない
そういう人が
さまざまな経験の後に
「酒こそが素晴らしい」という歌を作るのは
人間の世の中のどうしようもなさや
それへの落胆や
諦めがあってのことだろう
当時はもちろん
中国の古い詩に通じているのが教養の中心で
酒を飲み
琴を弾じ
竹林で清談をした
竹林の七賢人とよばれるあの隠士たちの話などは
生き方の理想として
伝えられていたに違いない
隠士というのは
世の中から離れて
世の濁りに染まらないように生きる人々であり
清談というのは政治の話をしないで
詩や美しいものなどについて
話すことを言う
陶淵明も酒を賛美して
有名な詩を残しているが
大伴旅人はもちろん
陶淵明も熟読していたはずだろう
日本でも
ぜひ
中国の詩人たちのように
酒を賛美した名歌を作ってみたい
と考えたことだろう
ところが
なかなか日本では
中国の伝説や
陶淵明のような特例のようには
いかない
万葉集というのは
現代人の目から見ると
古典中の古典で
落ち着き払った
面倒くさそうな
偉そうなものに見えるが
当時の情勢の中では
生きるか死ぬかの瀬戸際を
かろうじて生き延びたり
あるいは殺されたりした人たちの
残した歌の集成
と見たほうがいい
Ⅱ
日本の酒は
歴史的にふり返ると
五世紀に朝鮮半島から「スズコリ」と呼ばれる醸造技術者が渡来し
酒糀を使った醸造技術が伝えられたらしい
万葉集の時代には
「白酒(しろき)」
「濁酒」
「黒酒(くろき)」
「清酒(すみさけ)」
「赤酒(あかさけ)」
「難酒(かたさけ)」
「新酒(あたらしさけ)」
「古酒(ふるさけ)」
「糟湯酒(かすゆざけ)」
などがあった
「白酒」は
できた酒を荒目の布袋で手絞りし
粕を取り除いたもので
白っぽく濁っている
「濁酒」は「濁れる酒」のことで
「ニゴレルサケ」
濁れる酒とは
糟をこさない酒のことで
「濁酒」や「にごり」といい
やや粥状になっていて
白酒になる前の酒
「黒酒」は白酒に
「くさぎ」とよばれるクマツズラ科の低木の根を
蒸し焼きにした灰を混ぜたもの
「清酒」は
現在の清酒とは違い
白酒の上澄み液のこと
「赤酒」は
タンニン系の色素を持った赤米で作った酒で
はじめは淡い桃色だが
すぐに褐色に変化する
「新酒」は
現在の新酒と同じ
「古酒」は
かなり年月の経った古い酒で
現在でも
品揃えの多い日本酒専門の居酒屋に行くと
10年、20年、30年も経た古酒を置いてあるところがある
「難酒」はできの悪い酒で
すでに酸っぱくなったものと思われる
火入れをする技術は当時はなく
難酒はそのまま酢となる
「糟湯酒」は
白酒をとった後の粕に湯を加えたもので
香、味、アルコール度数の低いもの
貧乏人の飲む酒だった
Ⅲ
大伴旅人は位の高い役人だから
「一坏(ひとつき)の濁れる酒」というふうに
盃に注いで酒を飲んでいる
しかし
ふつうの民衆は
おそらく
盃で酒を飲むことはできなかっただろう
祭りの時に
濁り酒や
酒粕を湯で溶いた糟湯酒を飲むのが
精一杯だったはずだ
万葉集では
貧乏な人々のことを歌った山上憶良の「貧窮問答歌」に、
「(…)堅塩を取りつづしろひ糟湯酒(かすゆざけ)
という記述が出てくる
大伴旅人が飲んでいるのが
けっして「糟湯酒」ではなく
一般庶民にはなかなか飲めない酒を飲んでいた
というところを見ておくのも
当時の階級や社会を推測する上では大事だろう
中国の竹林の七賢人や陶淵明などの場合も
酒を愛するというのはお定まりの話で
世の中から離れ
世の中の濁りに染まらないように生きつつ
政治の話をしないで
詩や美しいものなどについて清談するわけだが
そういう彼らが飲んでいた酒はどのようなもので
はたして
一般庶民と同じ酒だったのか
それとももっと高級な酒だったのか
だとすれば
そういう酒を手に入れる手段や経済力はどこから来るのか
などと考えると
その時代の社会のありように
もっと迫ることができる
場合によっては
そうしたお話の嘘を見抜くこともできる
物語や伝説や小説や映画などで語られることについては
いつも
物や金銭面から考察を加えると
真相が浮き出てくる
万葉集の凄いところ
逞しいところは
大伴旅人が「濁酒」を「坏」で飲んでいて
あくまで
庶民が及びもつかないような高位の暮しをしつつ
「酒」を歌っていながらも
その子の大伴家持は
「濁酒」など飲めずに「糟湯酒」を啜るだけの貧乏人を歌う
山上憶良の歌も
しっかりと万葉集に収めて
時代の人間像をできるだけ広く収集しよう
としているところ
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