2023年9月17日日曜日

「無、この泡沫、処女である詩句」

 

 

 

Rien, cette écume, vierge vers


             Stéphane Mallarmé  «SALUT »

 

 

 


 

「文学はどこへ向かうか?

文学自身へ

文学の本質へ

すなわち、その消滅へ」

 

モーリス・ブランショはこう書いたが

これは

「文学」という単語を用いた

である

 

ちょっと

かっこいい

 

「無、この泡沫、処女である詩句」

という

マラルメの「挨拶(Salut)」の冒頭の一行を

思い出したくなる

 

でも

「文学」なんて

だれにも

なんの関わりもないものなんだ

 

そうとわかるのには

たぶん

数十年を

「文学」という単語をお手玉にしたり

ビー玉にしたりしながら

浪費しないと

いけないかもしれない

 

だいじなのは

「文学」なんていう単語を使っての

お手玉あそびや

ビー玉あそびをしなくても

他の単語で

いくらでもそういったあそびができてしまう

と気づくこと

 

さらには

お手玉あそびや

ビー玉あそびなんてしなくても

いくらでも

ほかのあそびがある

ということ

 

ぼくは

このところずっと読み続けている

70冊以上の

「文学」本にくわえて

おととい

急に漱石の『それから』や『門』が読み返したくなり

バルザックの『あら皮』も

プレイヤッド版で読み直したくなって

書架から引っぱり出してきたけれど

それらを読むのに

「文学」なんて単語も

概念も

まったく要らないんだよね

 

ゆっくり読み継いできて

だんだんと終わっていこうとしている

フィリップ・K.ディックのヴァリス三部作なんかには

「文学」っていう単語が

もう

なんの役にも立たないし

 

だから

だというのさ

モーリス・ブランショの言葉は

 

なんの役にも立たない

一時代の狂騒

流行り

 

批評や文学研究などは

一時期の

にしか過ぎないよね

よく

わからせてくれる

すっごく理知的な感じで

明晰な感じで

なんか

ものごとがパッとわかったような

高みに引き上げてくれるような

でも

歴史的な一時期にだけ

通用する

 

ちょっと

かっこいい

けど

 

さすが

マラルメは

「無、この泡沫、処女である詩句」

50篇程度しか

収めなかったじぶんの詩集の冒頭の

「挨拶(Salut)」の詩に

記した

 

「無」と

Rien






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