文芸批評家アルベール・ベガンは
バルザック論の中でフローベールをこっぴどく非難している
とりわけ文体については
フローベールの
「いつも同じような三つの律動的文要素からなる文章と
予期したとおりの結句を
果てしもなく繰返すこの偏執ともみえる完璧さ」
と
比較される場合
バルザックの「おどろくほど自由な用語(ラング)が
不完全なものと断じられる」
と批判している
ベガンが拠りどころとするのは
文芸批評家アルベール・ティボーデの著書
『ギュスターヴ・フローベール』(A. Thibaudet : Gustave Flaubert, 1935)の中のフローベールの文体論である
ティボーデによれば
演説調を基調とするフローベールの文体が
理想的なリズムと諧調に達する時
長短の秩序によって配合された三つの文要素 (membres)で
綜合文(une période) を構成する
『ボヴァリー夫人』にその傾向が著しく
ティボーデは
一例として次の文を引用している
《Le souvenir de son amant revenait à elle avec des attractions vertigineuses (1); elle y jetait son âme, emportée par un enthousiasme nouveau (2); et Charles lui semblait aussi détaché de sa vie, aussi absent pour toujours, aussi anéanti que s'il allait mourir et qu'il eût agonisé sous ses yeux. (3)》
ベガンは
この引用箇所について
「概括的に見ても
この場合
1:1:2の比率が窺われる」
としている
たしかに
文要素 (membres)と
それを合わせての
綜合文(une période) 構成のしかたにおいて
フローベール基準とする必要はないわけで
もしバルザックのいっそう自由な文構成のしかたを基準とすれば
フローベールは
狭い形式性に囚われたリズムの指向者に
過ぎないことになる
*引用箇所は『真視の人バルザック』(アルベール・ベガン著、
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