2023年10月12日木曜日

『Hard To Say l‘m Sorry』


 

 

ロックバンド「シカゴ」の

1982年の曲

Hard To Say l‘m Sorry』(『素直になれなくて』)は

その頃

TVでやっていた「ベストヒットUSA」で

はじめて聴いた

 

この番組は

ちょうど風呂から上がって

バスタオルで髪の毛を拭いているような時間帯にやっていたので

そんな感じで

はじめて聴いたのではないか

と思う

 

1982

まだ一般家庭には

ヘアードライヤーは普及しておらず

髪の毛を乾かすのは

タオルやバスタオルだった

 

https://youtu.be/1A0MPWseJIE?si=yEf6dpfXzt3Xx995

 

名物番組となったテレビ朝日の「ベストヒットUSA」も

小林克也の名司会で

1981年から手作り感覚で始まったばかりで

まだヴィデオクリップなどというものが

容易に見られない時代

海外の新作ポップスが映像とともに聴けること自体が

新鮮だった

 

そんな中でも

Hard To Say l‘m Sorry』は

とびきり

印象に残る名曲だった

 

ぼくは

ポップスに心酔したりして

新しいものを

次々と

追いかけ続けていたようなわけでは

ない

 

ランボーやマラルメにこそ

耽溺し

バルザックのあの広大な世界に入り浸って

バルザックの創作方法を

ひたすら

見極めようとしていた

 

 

Hard To Say l‘m Sorry』に

戻る

けれども

 

この曲だけ知って

ロックバンド「シカゴ」をわかったつもりになるのは

もちろん

間違っている

 

1967年に「ビッグ・シング」として始まり

「シカゴ・トランジット・オーソリティ」となって

すでにビルボード20017位になる地位を確立してから

1970年に「シカゴ」となっていったこのグループは

メンバーの入れ替えも傾向の変化も激しく

一筋縄では捉えきれない

 

ベトナム戦争反戦や大統領候補応援に傾いた時期もあれば

ジャズやラテン音楽に傾いた時期もあって

アメリカ現代史の一時期を体現するグループと

なっていた

 

 『Hard To Say l‘m Sorry』は

デイヴィッド・フォスターのプロデュースの元に

ラヴバラード路線に注力するようになった時期に

たまたま

特徴のある伸びやかな高音の歌唱で「100万ドルの歌声」と言われた

ピーター・セテラ(Peter Cetera)が在籍したからこその

特別な超ヒットでもあった

 

バンドの顔だったピーター・セテラは

その後

ソロ活動に専念するため1985年に脱退してしまい

「シカゴ」はさらにヒットを出し続けはするものの

プロデューサーのフォスターへのメンバーたちの不満から

フォスター解雇に向かうことになる

 

どこの世界のグループや集団もそうだが

さまざまな条件が奇跡的に重なっての最盛期は一時的であり

永遠は存在しない

 

すでにポップスの古典となった『Hard To Say l‘m Sorry』は

現代では

対訳歌詞付きの映像で容易に聴くこともできる

 

1982年には

対訳付きで聴くことなど不可能だった

 

この曲の場合はまだわかりやすいが

英語圏の習慣や常識や発想をよく知らない場合は

曲によっては

英語では捉えづらい部分があるものもあった

 

https://youtu.be/8yTzC7U45zs?si=j9LXQi_S3kdIks3k






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