2024年1月19日金曜日

銀座銀座というがなんのことはない

 

 

 

わたくしは元来その習癖よりして

党を結び群をなし、

其威を借りて事をなすことを欲しない。

永井荷風『濹東綺譚』

 

 

 

 

湯槽に浸って入浴しながら

よく

「銀座百点」を読む

 

風呂では

濡れると困るものは読めないので

雑に使える雑誌を読む

 

「銀座百点」は

呉服屋が

毎月送ってきてくれている

 

九段下に引っ越してから

東京駅や日本橋や銀座方面へは

ほとんど徒歩で行き来するようになったので

銀座もずいぶん馴染みになった

そのかわり

ごく若い頃の自分の街のようだった渋谷へは

年に数回しか出なくなり

新宿にもほとんど行かなくなった

 

東京の人間は

歳を重ねてくると銀座付いてくる

やはり

銀座が中年の街だからだろう

と思う

若い人たちもいるが

かなりの富裕層の若者たちだろう

 

富裕層というのは

つまり

老いているということだ

本当の若者は

まだ社会でまったく認められない行為に身心を投じている

現行の状況下で

まったく無視されているから

真の若者はつねに透明である

透明人間にも金はいるだろうが

彼らが得たり使ったりするのは透明の金だ

いまある世の中とは

交わりようもない

 

自分で進んで入ることはまずないが

連れられて

BULGARIのカフェでランチを食べた時には

驚かされた

4400円もするわりに

量の少ないパスタに小物をあわせたランチを

たくさんの若者たちが食べている

不況だの

若者には金がないだの言われているのに

昼の銀座のBULGARIには

フェラーリで乗り付けて

軽装で高いランチを食べていく若者がいっぱいいる

日本の縮図だろうか

徳田秋声が書いた『縮図』も

「晩飯時間の銀座の資生堂は、いつに変わらず上も下も一杯であった」

と始まるが

今も昔も

こういうところは変わらないのかもしれない

 

わたしは

銀座の街並みには馴染んでも

銀座ぶるわけではない

 

銀座が

どこか精神の鈍い

世界の実相のまるで見えていない

富裕層のオバサマや子弟たちのテーマパークに見えることは

以前と変わらない

 

商品売り場という観点からは

銀座にとてもよいものばかりがあるのは

疑いようがない

いわゆるブランド品の宝庫だが

ブランド品を買うのは

ブランド品という鎧を必要とする脆弱な精神のみであろう

わたしはフランス女性を30年ほど伴侶とし

彼女は田舎出身とはいえ

パリ大学で長く文学研究や語学をしていたので

日本に来る前はパリジェンヌだったが

わたしが母から貰ったランヴァンのマフラーのタグの部分を

ブランド名が見えないように縫い合わせた

どうしてそんなことをするのか?

と聞くと

ブランド名が見えるものを使うのは恥ずかしいからだ

と言われた

これがフランス女の考え方で

これみよがしにブランド名を見せびらかして使う日本女とは

まったく違うところ

タグは縫い込んだり切り取って捨ててしまったりする

もちろん

フランス女にも

軽佻浮薄な日本女もどきもいるが

ルイ・ヴィトンのバッグでジャガイモを買いに行くような

筋の通った反抗精神の持ち主が多い

アルベール・カミュがデカルトをもじって言った

「われ反抗す、ゆえにわれ在り」が

やはりフランス人のデフォルトではある

 

銀座への違和感

という点では

わたしたち東京人の大先達である永井荷風先生が

『濹東綺譚』の「作後贅言」で

こう書いている

 

わたくしは翁(帚葉翁)の談話によって、銀座の町がわずか三四年見ない間にすっかり変った、其景況の大略を知ることができた。震災前表通に在った商店で、もとの処に同じ業をつづけているものは数えるほどで、今は 悉く関西もしくは九州から来た人の経営に任ねられた。裏通の到る処に海豚汁や関西料理の看板がかけられ、横町の角々に屋台店の多くなったのも怪しむには当らない。地方の人が多くなって、外で物を食う人が増加したことは、いずこの飲食店も皆繁昌している事がこれを明にしている。地方の人は東京の習慣を知らない。最初停車場構内の飲食店、また百貨店の食堂で見覚えた事は悉く東京の習慣だと思込んでいるので、汁粉屋の看板を掛けた店へ来て支那蕎麦があるかときき、蕎麦屋に入って天麩羅を誂え断られて訝し気な顔をするものも少くない。飲食店の硝子窓に飲食物の模型を並べ、之に価格をつけて置くようになったのも、蓋し已むことを得ざる結果で、これまた其範を大阪に則ったものだという事である。
 街に灯がつき蓄音機の響が聞え初めると、酒気を帯びた男が四五人ずつ一組になり、互に其腕を肩にかけ合い、腰を抱き合いして、表通といわず裏通といわず銀座中をひょろひょろさまよい歩く。これも昭和になってから新に見る所の景況で、震災後類にカフエーの出来はじめた頃にはまだ見られぬものであった。わたくしは此不体裁にして甚だ無遠慮な行動の原因するところを詳にしないのであるが、其実例によって考察すれば、昭和二年初めて三田の書生及三田出身の紳士が野球見物の帰り群をなし隊をつくって銀座通を襲った事を看過するわけには行かない。彼等は酔に乗じて夜店の商品を踏み壊し、カフエーに乱入して店内の器具のみならず家屋にも多大の損害を与え、制御の任に当る警吏と相争うに至った。そして毎年二度ずつ、この暴行は繰返されて今日に及んでいる。わたくしは世の父兄にして未一人の深く之を憤り其子弟をして退学せしめたもののある事を聞かない。世は挙って書生の暴行を以て是となすものらしい。曾てわたくしも明治大正の交、乏を承けて三田に教鞭を把った事もあったが、早く辞して去ったのは幸であった。そのころ、わたくしは経営者中の一人から、三田の文学も稲門に負けないように尽力していただきたいと言われて、その愚劣なるに眉を顰めたこともあった。彼等は文学芸術を以て野球と同一に視ていたのであった。

 

荷風はここで

慶応に対しても悪態をついているが

中心となっているのは

関東大震災後の銀座の激変のことである

とりわけ

銀座の大阪化や九州化を嘆いている

 

令和のいまの世になっても

銀座は

なにかというと

銀座銀座というが

なんのことはない

生粋の東京人の鼻には大阪が臭い

九州が臭い

異物が目についてならないのも

こう言われてみれば

当たり前のことだったわけだ

荷風先生は

小石川生まれの身長180㎝(175㎝とも)の東京人だったが

こういう人は

東京のものでない臭気を帯びたものが

わがもの顔して東京でござい!というのなど

すぐに嗅ぎ分けてしまう

京都人が外来者に厳しいのは有名だが

東京人はもっと厳しい

ただ

東京人は口に出さないだけなのだ


神田生まれの母方の祖父は

ちょっとでも東京ふうでない店や駄目な店には

なにも言わず

なんの注意もせずに

ただ

二度と行かない

という振舞い方をした

それが東京人のスマートさであり

極めつけの冷酷というものだ

と母には教えた

 

その息子である叔父のひとりは

料理屋で

髪の毛一本でも入っていたら

主人を呼び出して作り直しを命じた

それを聞いた祖父は

だからおまえはダメなんだ…

と諫めたという

 

わたしなら

髪の毛一本では

怒りはしないだろう


叔父とは違う


しかし

祖父とも違うところは

帰る際に

髪の毛がどこどこに入っていたよ

と言い置いておくところか


いい味が出てましたな

とつけ加えれば

京都人になれるかもしれないし

おもろい料理やったな

とつけ加えれば

大阪人になれるかもしれない

 





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