「不世出の語学の天才」
と呼ばれた
関口存男について
ドイツ語学の真鍋良一が書いた文を読
こういう箇所があった
……ドイツ語に関しては、実に早くから広く、深く、人の気づかな
真鍋良一「関口存男先生」
関口存男については
もちろん
これだけの記述では足りない
大学をつつつつつ…と通過する程度の学士たちには
ドイツ語の教科書や参考書を作った
語学の先生という認識しかない場合が多いが
とんでもない鬼才だった
陸軍士官学校を出て歩兵少尉となるが
肋膜炎を患って休職し
方向を転じて
上智大学の哲学科に入学する
そこまでは普通の歩みと言えるが
大学に籍を置いたまま
翌年
アテネ・フランセに通い出し
1年後にはアテネ・
まだアテネ・フランセで
フランス人たちだけが教えている時代である
同じ年の秋にはラテン語の教授にもなってしまう
そもそも
ドイツ語が本領のひとだったが
幼年学校時代の14歳や15歳の頃に
『罪と罰』のドイツ語訳を
辞書を首っ引きで読み続け
2年してようやく話がわかってきたというから
荒行のようなすさまじい勉強法をしたのがわかる
彼の勉強法は
発音しながらペラペラ何度も読み上げるというものだそうで
自身でペラペラ式メトーデと読んでいた
留学などしたこともないのに
流暢な発音と高度の能力を身につけ得たのは
この勉強法のゆえだった
ドイツの哲学者カール・レーヴィットへ森田草平が送る手紙を
関口存男がドイツ語に訳したこともあったが
ドイツ人が書く以上に見事なドイツ語だったため
日本にいるナチスのドイツ人が書いたのではないか?と
ユダヤ人のレーヴィットが恐れたと言われているが
このとき関口存男は
森田草平が口述する日本語を聞きながら
その場でタイプライターで打ってドイツ語にしていったという
ドイツ語やフランス語やラテン語どころか
中高ドイツ語や古高ドイツ語
英語やスペイン語やイタリア語やオランダ語やロシア語
ギリシア語やサンスクリット語やゴート語やエスペラント語まで
学んでいた
中国語とのつき合いは漢文読みのものだったというが
本場の中国語にも手を出していたかもしれない
新劇の劇団も結成し
みずから俳優もやる舞台人でもあったが
64歳で脳溢血で急逝したのは
このひとにとっても
日本にとっても
惜しいことであった
爪の垢でも煎じて…
と思うひとは
わたしだけではないだろう
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