2024年5月21日火曜日

花紅葉をつくづくとながめ来りて見れば

 

 

 

花紅葉を知らぬ人の

初めより

とま屋には住まれぬぞ

 

『南方録』にはある

 

藤原定家の

 

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ

 

に寄りながら

寂び切った苫屋の境地は

さんざんぱら

花も紅葉も見尽くした後にしか開けてこない

と教える

おそろしい箇所である

 

無一物の境界たる

浦の苫屋の景は

浴びるほどに花と紅葉を見飽かした者にしか

開示されない

 

利休は

こう伝えたという

 

花紅葉をつくづくとながめ来りて見れば

無一物の境界

浦のとまやなり。

花紅葉を知らぬ人の

初めより

とま屋には住まれぬぞ。

ながめながめてこそ

とま屋のさびすましたる所は見立たれ。

これ茶の本心なり。

 

ベンチャーである

上洛後の織田信長が軍資金を堺に求めた時

堺の商人は二派に分れた

利休こと千宗易は

信長に投資し

先物買いに大成功した側である

 

「花紅葉」を

「ながめながめてこそ」

「浦の苫屋の秋の夕ぐれ」がわかる

と主張する利休の

現世美学が

ここにはある

 

もっとも

芭蕉は

さらに先の

非現世美学まで行っただろう

とは

思うが

 

蚤虱馬の尿する枕もと

 

芭蕉野分盥に雨を聞く夜かな

 

這ひ出よ飼屋が下の蟾の声

 

初雪や聖小僧が笈の色

 

花にねぬ此もたぐひか鼠の巣

 

わが宿は四角な影を窓の月

 

家はみな杖に白髪の墓参り

 

世にふるも更に宋祇のやどりかな

 





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