2024年5月5日日曜日

後白河上皇!



 

ひょっとして

日本が闇黒政治界に誇る

世紀のDSであった

後白河

忘れてませんかね?

 

鳥羽上皇が

長男の崇徳天皇のことを

じぶんの子でなく

祖父の白河上皇の子じゃないのか?

と疑って

崇徳天皇を退位させるところから

まあ

ごたごたは始まる

 

世紀のこのDSが

ひとたび天皇に据えられてしまうと

藤原忠通や源義朝や平清盛が

この後白河天皇側につき

崇徳上皇側には

藤原頼長や源為義や為朝や平忠正がついた

 

鳥羽上皇が死んで9日後には

源義朝や平清盛が

崇徳上皇陣営を攻撃し

即日に勝利し

崇徳上皇は讃岐に流され

藤原頼長は戦死

源為義と平忠正は処刑となった

源為朝は八丈島送り

 

後白河天皇は

三年後に二条天皇に譲位して

院政を開始するが

この頃には

こんどは

源義朝と平清盛が敵対関係になっていた

ここからが

後白河上皇の

いっそうの本領発揮

 

後白河上皇は

平清盛ばかり重用したので

ついに

藤原信頼と源義朝がクーデターを起こし

上皇を幽閉し

天皇も反乱軍に捕まってしまう

ところが

平清盛が上皇と天皇を救出し

後白河上皇は

藤原信頼の追討令を出す

源義朝も都から落ち延びようとするが

途中で討たれて殺される

 

この時義朝の三男の頼朝は殺されず

伊豆に流刑となり

義経も殺されなかったので

のちのちの平家滅亡の種が蒔かれることになるのだが

この歴史的事実に学んだ戦国の武士たちは

敵とみれば一族郎党をみな殺すのを

常道とするようになっていく

 

まあ

長くなるから端折って急ぐことにするが

平清盛が太政大臣にまでなり

彼の平家が

藤原氏のような支配力を保つようになると

はじめのうちは

ごまかしながらうまくやっていた後白河上皇も

だんだんと不愉快になってくる

そこでこのDS

1177年にクーデターを起こすが

すぐに鎮圧されて幽閉され

失脚して

平清盛の独裁体制が確立する

 

しかし

天下のDSたる後白河上皇は

1180年

息子の以仁王に命じ

源氏に平家打倒を呼びかけさせて

各地の源氏が旗揚げをすることになる

うまいぐあいに

1181年には平清盛が病死したので

平家は戦いで敗北続きとなっていく

1183年には

木曾から源義仲が京に攻め込み

平家を京から追放し

後白河上皇も大喜びしたものの

乱暴者の田舎武士たる義仲を嫌って

これを殺せと源頼朝に命じる

 

あっけらかんと

こういう手のひら返ししちゃうところが

すてきだわよ!

後白河上皇!

 

1184年1月

源頼朝の命を受けた源義経が

源義仲を倒し

その勢いで

西に逃げていた平家を追い詰めて

一の谷や屋島の戦いで勝利し

ついに

1185年3月

壇の浦で平家を滅亡させた

 

平家の消滅を受けて

源頼朝は東海道と東山道の支配権を認めさせたが

朝廷権力の危機を感じた後白河上皇は

1185年に

京にいた源義経に

頼朝追討の命令を下す

あっちを滅ぼし

こっちを滅ぼし

今度は義経を使って頼朝を殺そうと命じるとは

なんとも鮮やかな機転

 

ところが

これを聞き及んだ頼朝が

なんたること!

と後白河上皇に抗議すると

こりゃ済まなかったね

とばかりに

こんどは頼朝に

義経追討の

命を下すんだから

これはもう天才的な政治屋であった

 

あっけらかんと

またまた

平気で

平然と

こういう手のひら返ししちゃうところが

ほんと

すてきだわよ

ほんと

悪党中の悪党

このこころの軽薄さ!

軽みのきわみ!

後白河上皇!

 

知られるとおり

義経は奥州へと逃げのび

藤原秀衡に迎えられたものの

秀衡の急死で義経の運命は変わる

後を継いだ藤原泰衡は

義経を渡せとの頼朝からの催促に抗しきれず

義経をついに裏切ったので

義経は自害して果てた

これで奥州藤原氏は安泰かと思いきや

頼朝はこわいよ

泰衡を攻めて

滅亡させてしまうことになるわけ

このあたり

藤原秀衡のあまりの政治眼のなさが

わざわいしたと言えようが

一ミリでも気にくわないやつはみな殺す

という頼朝や

その後ろに控える

手のひら返しの超絶軽みの上皇

後白河上皇の霊力には

奥州藤原氏ごときではもともと

太刀打ちできなかったのだろうさ

 

1192年になって

ようやく

これまで世紀のDSとして

平家も源氏も操ってきた後白河上皇が死に

征夷大将軍になるのを拒まれ続けてきた頼朝が

征夷大将軍となり

鎌倉幕府を開く運びとなった

 

とはいえ

冷静で冷酷で

誰ひとり人間を信じない頼朝も

1199年には死んでしまう

 

征夷大将軍になってからは

わずか7年で死んだ

源頼朝は

言い方を変えれば

後白河上皇による操縦を逃れてから

わずか7年で死んだことになる

 

1159年に父を失い伊豆に流されてから

ながながと40年

報復のためだけに生きた

この男が死ぬ時には

父の義朝のことも

祖父の為義のことも

大英雄の伝説的な叔父の為朝のことも

巨大な敵の平家のことも

ぜんぶ

遠い夢のようになっていただろうか?

 

しかし

12歳や13歳ぐらいだった少年時代

平治の乱の時

いくさに敗れて

雪深い山のなかで

父の義朝の後を追うのに遅れ

雪のなかをさまよい続けた思い出は

むしろ

ありありと

脳裏に残っていたかもしれない

 

処刑されるべきところを

平忠盛の未亡人で

平清盛の継母

平頼盛の実母である

池禅尼に助けられたことは

覚えていただろうか?

 

従者の纐纈盛康が見た霊夢を

語られた時のことは

おそらく

ありありと覚えていただろう

 

その夢のなかでは

白い浄衣に立烏帽子姿で

頼朝が石清水八幡宮に参詣すると

神殿のなかから声がして

頼朝に

熨斗鮑六十六本を食べよ

と命じたのだった

 

頼朝は熨斗鮑の広いところを三口ほど食べるが

纐纈盛康は

六十六本の鮑を食べることは

日本の六十六カ国を掌握することだ

と頼朝に説明したのだった

 

死にゆく時の頼朝は

はたして

盛康の霊夢のとおりになった

と思ったか

霊夢のとおりにしか

ならなかった

と思ったか

 

 

 




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