2024年7月4日木曜日

あのエレーヌは誰か?

 

 

 

本当であること、ただ単に本当であること。

それ以外のものは長くは保たない。

スタンダール 『アンリ・ブリュラールの生涯』

 

Être vrai, et simplement vrai, il n’y a que cela qui tienne.

Stendhal La Vie de Henry Brulard

 

 

 

 

 

大学生の頃

教授たちの中でも年長のひとりから

戦後すぐのエピソードを聞いた

 

友人たちと

熱海の旅館に一泊した

という

 

海を見はらせる高台の旅館で

大きな部屋に通された

海にむかって並ぶ大きなガラス窓からの眺めが

気分を開放的にしてくれて

いっしょに来た六人は

畳の上のテーブルに集って一服しながら

しばらく無駄話をし

海や空をぼんやり見ていたという

 

窓のむこうを

お盆を手に持ちながら

右から左へ歩いて行く女性の姿がふと見え

こちらを向いた女性は

会釈をしながら進んでいき

左手に消えた

旅館の仲居さんと思われ

他の部屋に

お盆に載せたお茶などを持って行くところ

と見えた

 

そろそろ

温泉に入りに行こうか

ということになり

今さっき仲居さんが通っていった

窓の外の通路を行けば

温泉までは近かったりするのではないか

と誰かが言ったので

それじゃあ

そっちから行こうか

と何人かが窓のほうへ寄ってみた

 

すると

窓の下は断崖絶壁のようになっていて

通路などなかった

六人とも

部屋に入って以来

窓の近くへは寄ってもみなかったので

わからなかったのだ

 

それでは

さっき通っていった仲居さんは

あれは

なんなんだ?

ということになったが

六人が六人

みなが

お盆を携えた仲居さんを見たので

気のせいとか

見あやまりとは

誰ひとり言うものはなかった

 

「世の中には

そういうこともあるんだよ

戦後すぐという

時代のせいとは言えない

だって

空襲で死んだ人とかを

けっこう見たし

戦地で死んだ知りあいや友人もいたけれど

幽霊なんて

一度も出なかったからね」

 

教授はこう言ったが

これを聞いていた誰だったかが

「平和になって

幽霊もようやく出て来れるようになった

なんて解釈も

できませんかね」

うまいことを言った

 

たしかに

お盆を抱えて

海沿いにスーッと行く幽霊など

なかなか

風情がある

 

わたしの場合も

ながく親しんだエレーヌが亡くなる一週間ほど前に

似たような経験があった

 

エレーヌは

病院に入院しているはずだというのに

ある晩わたしが家に帰ると

玄関から奥に見える居間の椅子に座っていて

こちらを見て

ニコニコしていた

 

あ?

エレーヌ?

と思う間もなく

エレーヌの姿は失せて

もちろん

これは

わたしの見まちがいか

あるいは

思いのなかの彼女の映像が脳裏に重なったか

そんなことだろう

と思った

 

わたしの場合は

戦後の熱海で六人で体験をした教授と違い

たったひとりでの体験だったので

思いちがいとか

見まちがいとか

意識のブレとか

そんなふうに

片付けられてしまうほかない

 

当時わたしが住んでいた家は

玄関から入ると

奥の居間にむかって廊下が延びていて

居間のドアを閉めていなければ

左の壁際に置いてあるソファの端や

テーブルにむかって置いてある椅子のひとつが

玄関からでも見えた

 

エレーヌは

冬のうすいカーキ色の分厚いブルゾンを着て

椅子に座っていて

腕を組んで

こちらを見ていた

 

まだ10月のなかば過ぎで

極めつけの猛暑だった夏のあとの秋だったこともあって

まったく寒くなく

エレーヌったら

ブルゾンなど着る必要もないのに

あとで思った

 

たったひとりでの体験だったので

こんな光景のすべてが

思いちがいとか

見まちがいとか

意識のブレとか

そんなふうに

片付けられてしまうほかない

 

あの家からも引っ越してしまって

もう8年になるので

住んでいた家の内部のようすなども

思いちがいとか

見まちがいとか

意識のブレとか

そんなふうに

片付けられてしまうほかないもののたぐいに

もう

入り込んでしまっている

 

そういえば

エレーヌが着ていると見えた

うすいカーキ色の分厚いブルゾンは

エレーヌの死が近い頃には

もう彼女の手元にはなく

かなり以前に捨ててしまっていたものだった

 

このことに

これを書いている今になって

気づく

 

1980年代に

エレーヌが好んで着ていたブルゾンで

それを着た彼女と

わたしは冬のフランスを旅した

 

ペンタックスの一眼レフで

たくさんフィルム写真を撮っていた頃なので

ブルゾンを着ているエレーヌの写真も

いっぱい撮った

 

うまく撮れた写真もあった

今でもまだ

たくさん残っている

 

いずれにしても

 

エレーヌが死ぬ一週間ほど前

すでに捨ててしまっていたブルゾンなど着て

寒くもない10月の夜

わたしの家の居間に座っていた

あのエレーヌは誰か?

 

死の迫っていたエレーヌの

生霊でさえない

カーキ色のブルゾンを着ていた

あのエレーヌは

誰か?





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