2024年9月29日日曜日

「自己」とか「私」とか


 

Xだの

Instagramだのに

ネット上で見つけた他のひとの花写真や風景写真を

気まぐれに投稿し続けるのも

じつは

意想外の大いなる「自己」発見につながる

(もちろん

「自己」なんて

はじめから最後まで

いつも

いつまでも

ないから…

という前提での

物質界への無銭旅行の

つかの間の

お座興ではあるが)

 

やはり

拾ってくる写真や絵に

いつのまにか

どうしても

偏りが出てきてしまうもので

どうでもいい写真や絵を

どうでもいいぐあいに投稿していくだけ

とは思っていても

じぶんがおのずと選んでしまうもの

どうしても選ばないもの

などの差は

だんだんと歴然としてくる

 

そういう「差」が

つまりは

「自己」だったわけか

と気づかされてくるわけだ

間接的「自己」の否応ない発見が

こうして為されていく

 

それに

たかがInstagramといっても

あのちっぽけな碁盤並べのしかたに

色だのかたちだのの

好みぐあいや選択ぐあいが

多量に並べ続けているうちには出てくるし

Xのほうだって

さっき赤っぽいものを載せたから

次にはきみどり系の面積の多いものを載せよう

などと

自然に調整が起こってくる

 

他人に見てもらうことを一切考えずに

願わずに

切手のコレクターや

お菓子のちっちゃなおまけのコレクターや

絵はがき集めが趣味のひとのように

まったくわがままに

好き勝手にやっているだけのことなのに

というか

それだからこそ

InstagramXなどの電子空間に

写真や絵を並べてみるのも

自室の壁にいろいろと掛けてみたりするのに似た

空間修飾感覚が発揮されたり

修正されていったりする

 

XだのInstagramだののいいところは

物理的な場所をまったくとらない

というところで

これは本当にすばらしい

それでいて

実質的にやっていることは

自室の装飾だの

回廊の壁への絵画や写真並べだの

趣味のあれこれの保管室のなかの装飾だのと

かわらぬことをやってしまっている

という点だ

 

じぶんが並べた投稿を

ふり返って見直すことはほとんどないが

たまに直近のものをふり返ると

ああ、じぶんはこういう精神構造なのか……

と部分的に

「自己」反省をする機会が得られる

そこに見出される「自己」に

愛着も

親近感も

まったくないのが

ある時期からの「私」の特徴だが

ともあれ対他的に

そうした「自己」構造が

いまの「私」として投影されていることは

認識しておいて悪くない

 

いまの私のこの「私」も

いまの私のこの「自己」も

どこのコンビニでも買える程度の

大量生産品の仮面に過ぎないとは思っているけれども

とりあえず

そこにゴミが付き過ぎていたり

おできができていたりしたら

ちょっと恰好悪いので

鏡をときどき見てみるわけだが

そんな鏡の役わりを

XだのInstagramだのが務めてくれる

 

いま記している

この

どうでもいい文字並べの形式も

また






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