2024年12月14日土曜日

現代の網棚

 

 

 

上野止まりとなる常磐線の列車で

遅く東京に帰ってきた

 

閑散とした後部車両に乗ってきたので

終点の上野に着くと

ホーム階段のあるところまで

けっこう長く歩いて行かなければならない

暗く味気ないホームを歩くより

車両から車両へ

行けるところまで歩いたほうが

明るい雰囲気でよい

 

どんどんと車両の中を歩いて行くうちに

今の時代ならではの

とあることに気づいた

 

読み終えられた新聞や雑誌が

どの網棚の上にも

まるで見当たらないのだ

 

新聞や雑誌は

ひと昔前なら必ず残されていて

電車が終点に着くたびに

それらを回収してまわるクズ屋もいた

 

進めど進めど

どの網棚にも見当たらない

 

現代の乗客たちが

しっかりと片づけをするようになったのではなく

新聞や雑誌とともに電車の小旅をするのが激減したことが

こんな車内風景を作り出したのだろう

 

きれいさっぱりと

なにも残されていない網棚を見て歩き続けるうち

ひと昔前の電車の網棚の光景のさまざまが

ふいに湧き上がった火災の煙のように

後から後から

猛然と意識に蘇ってきた

それらはすでに失われた時代の像であり

貴重でなどまったくないものの

二度と見ることのないであろう時間の顔であった

 

まったく

要らなくなった新聞や雑誌を

網棚にこんなふうに投げ出して下車していくなんて

しょうもない乗客たちだ

などと思いながら

何度電車を降りたかわからないが

そんな思いを抱く機会も

そんな思いのもとになる光景も

いつのまにか

さっぱり消滅してしまっていたのだ!

 

これも

ひとつの喪失のようなものか?

こういう喪失もあるのか?

あれらの過去の

網棚たちにも去って行かれてしまうのか?

 

そうして

ただただ透明な

これといって特別なところのない目となって

やけにくっきりとした

てらてらしてさえいる現代の網棚を

こんなふうに眺めていくのか?

 

そう思いながら

この場の光景とはまったく脈絡ないようながら

切実に共鳴させられるような

俵万智の一首を思い出していた

 

愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人





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