2025年12月14日日曜日

フール・オン・ザ・ヒル

 

 

 

世界で

自分の国で

社会で

ネットを含めた仮想界で

金融界で

さまざまな権力界で

一般人には容易には見えがたい軍事界で

はたして

本当にはなにが起きているのか?

 

それらについての情報に疎い人びとや

積極的に情報を収集しない人びとを馬鹿にするのは

ネット世界では

ほぼ定番の所作となっているけれども

文字テキストばかりか

音声も映像も

容易に創作・捏造できる時代になった今では

オールドメディアやネットを

ちょっと眺めてみた程度では

むしろ

情報のフリをした偽情報を掴まされることのほうが

圧倒的に多いので

積極的に情報を収集しょうとしないことのほうが

かえって

情報的防衛のためには

いいのではないか

とも

思えてくる

 

https://www.youtube.com/watch?v=j9EyhYt2TeI&list=RDj9EyhYt2TeI&start_radio=1

 

https://www.youtube.com/watch?v=__k3Rl5vyDw

 

https://www.youtube.com/watch?v=YYfKMDitlHM

 

https://www.youtube.com/watch?v=46-ePykbGaw

 

https://www.youtube.com/shorts/oIT_LwntsQQ

 

https://www.youtube.com/shorts/PF_cTlgVpII

 

 

あまりに世界情勢を報道しなさすぎる日本のオールドメディアに

とうの昔に愛想を尽かしているので

世界の潮の流れを感得するためにXを大量に見るが

いくら大量に見たところで

それらは自分が取材して精査してまとめた情報ではないゆえに

信じられるかどうかと反省すれば

もちろん信じられる情報などひとつもない

ただただ時代の為せるわざとして

ただただ時代に動かされ流され続ける結果として

「我Xを見る、ゆえに我あり」

となっているだけのことで

これは逆のスタンスに立つ人たちの

「我Xを信じず見ない、ゆえに我あり」

と結局変わらない

 

日本でのオールドメディアでの報道がほぼ一切なされない

トランプ政権のめまぐるしいほどの日々の政策決定や

EUに対するトランプ政権の対決姿勢の劇化は

XYouTubeFacebookの一部によってのみ

知りうるものとなっているものの

それらを通して知り得た情報が本当に正しいのかどうかは

まったく保証されないし

中国の国内情勢を危機的と報じる厖大な情報と

他方中国の圧倒的な国力の優越を謳うたくさんの情報とを

連続して見続けてみると

これはもうどちらが正しいのか

どこまでどの程度正しく

怪しく

あるいは偏向されているのか

判定はまったく出来ず

ひたすら推測し続けるしかなくなって

せっかく厖大な情報を浴びたというのに

溺れる情報の海をさらに巨大にしてみただけのような結果になっていく

 

日本のテレビが

煙幕のようにまき散らす情報や映像を信じないことは

もちろん

情報戦においては基本中の基本であるけれども

まったく信じない覚悟さえあれば

テレビもラジオも悪名高き日本の偏向報道新聞の数々も

XFacebookInstagramTikTokYouTube

ひとしなみに手中にしておくのは

地球にスパイにやってきた異星人のわれわれとしては

基本中の基本の

フィールドワークの技法のひとつであろう

 

どこの国が優位に立とうが

どこの民族が滅びに向かおうが

また

地球が結局存続できていこうが

今の人類の文明のよき部分が維持されていこうが

消滅していこうが

宇宙全体から見ればどうでもいいことで

地球がひとつ消えても

無限の宇宙のなかでは他にも

生命体や意識体が発生するのにふさわしい星はあるはずなので

そう心配することもなく

さらに言えば

生命体も

なにかと煩わしいばかりの意識体も

きれいサッパリ存在しなくなることも

窮極的には

慶賀すべきことではないか

と思える

 

21世紀の現時点に至って

ひとつ

確かになったのは

情報

というものが

くるくる変わる猫の目色になってしまったということであり

カメレオンになってしまったということであり

いくら追っても

手に入れても

信じうる実態のないバブルになってしまった

ということだろう

 

わたしのような荘子主義者にとっては

まあ

どうでもいいことではある

 

荘子

といってわからない人には

ザ・ビートルズThe Beatles

「フール・オン・ザ・ヒル」 The fool on the hill》でも

お勧めしておいたらいいだろうか?

 

それとて

もう古くなってしまっている

けれども


 

       Day after day, alone on a hill

      The man with the foolish grin is keeping perfectly still

      But nobody wants to know him,

      they can see that hes just a fool

      And he never gives an answer

 

来る日も来る日も、丘の上にひとりで

まぬけな笑みを浮かべた男は ぴくりとも動かない

だれも彼のことなど知りたがらないし

みんな彼をただの馬鹿だと思っていて
彼はなにも答えない

 

But the fool on the hill sees the sun going down
And the eyes in his head see the world spinning around

 

けれども

丘の上の愚か者は

沈む夕陽を見ている
知性の眼で

ぐるぐる回る世界を見ている

 

Well on the way, head in a cloud
The man of a thousand voices talking perfectly loud
But nobody ever hears him

 or the sound he appears to make
And he never seems to notice

 

あれこれ空想しながら

1000もの声を持つその男は

  とてつもない大声で話している
  けれども

  だれひとり

  彼の声も

  その音も聞いた者はいない
  彼のほうも

  まったく気にしていない様子

 

 (……………………)

 

 

The Beatles The fool on the hill

 

 

https://www.youtube.com/watch?v=9FFLp_w6kH8&list=RD9FFLp_w6kH8&start_radio=1

 

 

 




火葬文化と土葬文化

 

 

 

日本に来たムスリムが火葬を受け入れず

土葬に固執するということで

各地に葬儀上の問題が発生しているらしかったが

昨今はどうなっているのだろう?

お寺の墓地や霊園の空いている場所に

許可も得ずにこっそり土葬してしまう「闇土葬」なるものも

けっこう行われていたようで

これはつまりは死体遺棄にあたってしまうから

いっそう法的問題になるわけだが

ちょっと滑稽にも聞こえる「闇土葬」された遺体の

その後の扱われ方を想像すると

なんだか哀れなような

それでもどこか滑稽なような

べつに欲しくもないのに

B級の駄菓子をプレゼントされたような気に

なってしまう

 

土葬は不衛生だから

日本ではぜったいに認めてはいけない

という反対意見を目にしながら

ほんの50年前ぐらいまではけっこう土葬もあった

と実地で見てきた者としては

ぜったいに認めてはならないとまでは思わないんだけどな

と考えてしまう

 

昔の子どもはだいたい

お寺の墓地でかくれんぼをしたり

たいした理由もないのに駆けまわったりして遊んだものだが

そういうことをすると

どうしたってお墓のすぐ脇を走ったり

時にはお墓の土台の上を走ったりすることになる

土葬の多かった墓地などでは

埋められている木の棺桶が腐って潰れて

土がドボッと陥没している墓もけっこうあったりして

うっかりそういうところを走ると

土のなかに足を引きずられることもあった

 

子どもにはゾッとする経験だが

だいたいの場合は棺桶のなかの死体にまでは足は届かず

ウワァと叫んでヒヤヒヤ気分を味わうだけで済む

とはいえ足が膝のあたりまで入った子などは

靴を履いている足先がなにかに当たったような気がしたそうで

それってきっと死体だよ

ぐちゃぐちゃに腐っていたんじゃないのか?

もう骨になっている頭蓋骨に当たったんじゃないのか?

などとみんなで冷やかすと

かわいそうに夜など本当にうなされてしまうのが

けっこう楽しかった

 

子どもの頃というのは

死んだらどうなるのか?

あの焼き場の窯のなかに入れられて

死んだとはいえ

自分の身体が焼却される時には

死んだとはいえ

どんな気持ちになるのか?

などと考えて

寝る時など闇のなかで天井を見ながら

陰々滅々な気分によくなり

わたしは断固として火葬反対派で

死んだとはいえ

自分の肉体が高熱で焼却されるのなどまっぴらゴメンだ

それだけは許せない

とムスリムのように思っていた

死後の肉体はどうしたって土葬に限る

そうすればふいに生き返った場合に

うまく土をほじくって出て来れるではないか!

燃えさかる焼却炉の窯のなかで生き返りでもしたら

分厚い鉄の戸を叩いたって

どうしたって外には聞こえそうもない

そうしたら生きながら焼かれてしまうではないか!

そんな残酷な葬儀方法がどうして許されているのか?

などなどと

子どもの頃のわたしの思念は

けっこう嵐に見舞われ続けていた

 

大人になって

こんなことは思わなくなったが

それは結局

どこかの時点で諦めたということであり

火葬の残酷さを思想的に乗り越えたというわけではない

この人界というのは

なにに反対しようとも

しょせんは多勢に無勢で

なにせバカがつねに多勢の地上なのだから

われわれ賢者は黙って諦めて去っていくしかない

などとどこかの時点で諦めてしまったのだ

 

とはいえ

果敢に火葬に抵抗し

土葬をやり遂げようとするムスリムを見ていると

子どもの頃の葬儀に関する疑念と抵抗の意思がちょっと蘇り

内心ではムスリムに加担していたりするのを

感じる

だいたい

いろいろな糞宗教がやりがちな

神や仏や精霊やの偶像を祭るのを禁じている点で

ムスリムの精神的優位は際立っている

とも思えるので

もう一歩進めばアッラーアクバル!

になっちゃっても

いい

かも

しれない

 

そもそも

土葬を行うグループと

火葬を行うグループとの間には

それほど深い差は

なかったんじゃないのか?

ちょっとした生活条件の違いから

どちらかを選択することになった程度のことでは

なかったか?

と思えなくもない

 

古代ゲルマン人のなかでも

今のポーランド北部にあたる

オーデル川とヴィスワ川のあいだに

一世紀以降

発達した

ヴィエルバルク文化と

それより南に位置するプシェヴォルスク文化の

あいだの違いが

そんなことを思わせる*

 

プシェヴォルスク文化のほうは

火葬が主で

墓には武具を供えた

 

他方

ヴィエルバルク文化のほうは

土葬が中心であり

墓には武具を供えなかった

こちらの文化は

二世紀や三世紀に

さらに南へと拡大していった

 

どちらの文化が優性であったかは

唯一ローマ人の残した資料にのみ基づくため

決められないが

オーデル川沿岸では

さらに

ルボシツェ文化やデンプチノ文化が誕生し

三世紀中頃に

なおもヴィエルバルク文化が続いていた頃に

プシェヴォルスクや東ステップの文化が混入して

チェルニャホフ文化が発生した

 

これらの文化は

農業や家畜飼育を行っており

専門的な工芸品を作り

冶金分野の工芸品も作っていた

ローマの物品も大量に輸入されていたので

しっかりした商業ルートが確立されていたのがわかる

 

生活水準のそう違っていたとも思えない

土葬のヴィエルバルク文化と

火葬のプシェヴォルスク文化とは

どこが

どのように違っていたか

乏しい資料のゆえ

推測もままならないけれども

昨今の日本での

火葬の現代日本人文化と

土葬のムスリム文化とのあいだの

葬儀方法上の摩擦を見るたび

二十世紀ほどを飛び越えて

考えさせられてしまう

 

 

 

 

 

*このあたりのことは『ヨーロッパとゲルマン部族国家』(マガリ・クメール+ブリューノ・デュメジル著、大月康広+小澤雄太郎訳、白水社、文庫クセジュ1028)による。

Magali Coumert, Bruno Dumézil, Les royaumes barbares en Occident, Collection QUE SAIS-JE ? 3877, Presses Universitaires de France / Humensis, Paris, 2010,2016








2025年12月11日木曜日

岩づくりの便器神社群を前に

 


 

夢のような

 

といえば

ちょっとほんわかした

気分のいい

うっとりするような世界か

と思うが

 

実際に見る夢は

やけに地味な

現実的このうえない光景

だったりする

 

どこかの洞窟じみたカフェの

夢で見た

地下のトイレも

なかなか

ひどかった

 

きたない

というわけではない

だが

 

どこかの火山の麓のように

溶岩の柱みたいな

打ちっぱなしのコンクリートや

本当の溶岩のかたまりや

壁づくりに使われるブロックなどで

大小の小山が並んでいる

なんだかとんでもないトイレで

それらの山の上に

いちいち便器が置かれている

 

個室になっておらず

大小便をいたそうとする者は

それら小山に上って便器に腰を下ろし

まわりに裸の尻を晒したかっこうで

用を足さねばならない

 

それだけなら

まだしも

便器山のひとつひとつは

いちいち高さが違っているし

便器の種類も大きさも形状も違っているので

ある便器のとなりの便器は

ずいぶん下に位置していることもある

 

使う便器によっては

晒す尻に接しそうになるほど近くに

となりの便器に座る人の顔があったりするので

排便の際に出るいろいろな音を

どう控えめにしようかと

つねづね考えざるをえなくなって

どうにも使い心地が悪い

 

参ったなあ

どうしようかなあ

とりあえずは

どの便器を選ぼうかなあ

などと悩みながら

何十個あるんだかわからないような

岩づくりの便器神社群を前に

呆然と立ちすくんでしまっている

 

 




必要もなかったというのになぜだか

 

 

 

1282315分に

青森沖でM76の地震が起きたが

2212分の時点で

東京にいながら

ひどい目まいに見舞われた

 

目まいというより

まわりの光景が歪んで溶けていくような

激しい感覚で

脳内に異常が生じたのかと思った

 

地震の前にはよく

ひどい眠けや疲れに襲われたり

眼球の痺れるような疲れを感じたり

眼球と脳のあいだに硬い眠けのようなものを感じたりするが

今回のように

まわりが歪んでいくのが見えるほどの現象は

初めてだった

 

これは地震が来るな

と思ったが

案の定

2315分に

東京のマンションにいても

船に乗っているように揺れはじめた

 

このことより興味深かったのは

午後に帰宅した際

必要もなかったというのに

なぜだか

YouTube

東日本大震災の際に撮られたさまざまな記録動画を

たくさん見続けたことだ

 

当時の地震の際に

各地でいろいろな人が撮った被災の動画を

今になって見ようという特別な興味もなかったのに

そして

暇でもなかったのに

気づくと数時間ほど見続けてしまっていた

 

ちゃんと目覚めていながら

YouTubeを開いて

あえて東日本大震災の動画を次々選んで見続けるという動作が

わたしの意思によるのでなしに

すっかり操作されているかのように

数時間続いていた

 

興味深いというより

むしろ

恐ろしいと思うべきことかもしれない

 

わたしの行為自体が

わたし自身の意思を離れて発生し

夜に起こる地震に向けてイメージの準備をしていた

という気がする

 

もちろん

1282315分の地震は

東日本大震災ほどの被害はもたらさなかったので

わたしの自動的な行為がイメージの準備をしようとしたのは

これから来る

よりいっそうの壊滅的な地震に向けてであろう

と推測される