日本に来たムスリムが火葬を受け入れず
土葬に固執するということで
各地に葬儀上の問題が発生しているらしかったが
昨今はどうなっているのだろう?
お寺の墓地や霊園の空いている場所に
許可も得ずにこっそり土葬してしまう「闇土葬」なるものも
けっこう行われていたようで
これはつまりは死体遺棄にあたってしまうから
いっそう法的問題になるわけだが
ちょっと滑稽にも聞こえる「闇土葬」された遺体の
その後の扱われ方を想像すると
なんだか哀れなような
それでもどこか滑稽なような
べつに欲しくもないのに
B級の駄菓子をプレゼントされたような気に
なってしまう
土葬は不衛生だから
日本ではぜったいに認めてはいけない
という反対意見を目にしながら
ほんの50年前ぐらいまではけっこう土葬もあった
と実地で見てきた者としては
ぜったいに認めてはならないとまでは思わないんだけどな
と考えてしまう
昔の子どもはだいたい
お寺の墓地でかくれんぼをしたり
たいした理由もないのに駆けまわったりして遊んだものだが
そういうことをすると
どうしたってお墓のすぐ脇を走ったり
時にはお墓の土台の上を走ったりすることになる
土葬の多かった墓地などでは
埋められている木の棺桶が腐って潰れて
土がドボッと陥没している墓もけっこうあったりして
うっかりそういうところを走ると
土のなかに足を引きずられることもあった
子どもにはゾッとする経験だが
だいたいの場合は棺桶のなかの死体にまでは足は届かず
ウワァと叫んでヒヤヒヤ気分を味わうだけで済む
とはいえ足が膝のあたりまで入った子などは
靴を履いている足先がなにかに当たったような気がしたそうで
それってきっと死体だよ
ぐちゃぐちゃに腐っていたんじゃないのか?
もう骨になっている頭蓋骨に当たったんじゃないのか?
などとみんなで冷やかすと
かわいそうに夜など本当にうなされてしまうのが
けっこう楽しかった
子どもの頃というのは
死んだらどうなるのか?
あの焼き場の窯のなかに入れられて
死んだとはいえ
自分の身体が焼却される時には
死んだとはいえ
どんな気持ちになるのか?
などと考えて
寝る時など闇のなかで天井を見ながら
陰々滅々な気分によくなり
わたしは断固として火葬反対派で
死んだとはいえ
自分の肉体が高熱で焼却されるのなどまっぴらゴメンだ
それだけは許せない
とムスリムのように思っていた
死後の肉体はどうしたって土葬に限る
そうすればふいに生き返った場合に
うまく土をほじくって出て来れるではないか!
燃えさかる焼却炉の窯のなかで生き返りでもしたら
分厚い鉄の戸を叩いたって
どうしたって外には聞こえそうもない
そうしたら生きながら焼かれてしまうではないか!
そんな残酷な葬儀方法がどうして許されているのか?
などなどと
子どもの頃のわたしの思念は
けっこう嵐に見舞われ続けていた
大人になって
こんなことは思わなくなったが
それは結局
どこかの時点で諦めたということであり
火葬の残酷さを思想的に乗り越えたというわけではない
この人界というのは
なにに反対しようとも
しょせんは多勢に無勢で
なにせバカがつねに多勢の地上なのだから
われわれ賢者は黙って諦めて去っていくしかない
などとどこかの時点で諦めてしまったのだ
とはいえ
果敢に火葬に抵抗し
土葬をやり遂げようとするムスリムを見ていると
子どもの頃の葬儀に関する疑念と抵抗の意思がちょっと蘇り
内心ではムスリムに加担していたりするのを
感じる
だいたい
いろいろな糞宗教がやりがちな
神や仏や精霊やの偶像を祭るのを禁じている点で
ムスリムの精神的優位は際立っている
とも思えるので
もう一歩進めばアッラーアクバル!
になっちゃっても
いい
かも
しれない
そもそも
土葬を行うグループと
火葬を行うグループとの間には
それほど深い差は
なかったんじゃないのか?
ちょっとした生活条件の違いから
どちらかを選択することになった程度のことでは
なかったか?
と思えなくもない
古代ゲルマン人のなかでも
今のポーランド北部にあたる
オーデル川とヴィスワ川のあいだに
一世紀以降
発達した
ヴィエルバルク文化と
それより南に位置するプシェヴォルスク文化の
あいだの違いが
そんなことを思わせる*
プシェヴォルスク文化のほうは
火葬が主で
墓には武具を供えた
他方
ヴィエルバルク文化のほうは
土葬が中心であり
墓には武具を供えなかった
こちらの文化は
二世紀や三世紀に
さらに南へと拡大していった
どちらの文化が優性であったかは
唯一ローマ人の残した資料にのみ基づくため
決められないが
オーデル川沿岸では
さらに
ルボシツェ文化やデンプチノ文化が誕生し
三世紀中頃に
なおもヴィエルバルク文化が続いていた頃に
プシェヴォルスクや東ステップの文化が混入して
チェルニャホフ文化が発生した
これらの文化は
農業や家畜飼育を行っており
専門的な工芸品を作り
冶金分野の工芸品も作っていた
ローマの物品も大量に輸入されていたので
しっかりした商業ルートが確立されていたのがわかる
生活水準のそう違っていたとも思えない
土葬のヴィエルバルク文化と
火葬のプシェヴォルスク文化とは
どこが
どのように違っていたか
乏しい資料のゆえ
推測もままならないけれども
昨今の日本での
火葬の現代日本人文化と
土葬のムスリム文化とのあいだの
葬儀方法上の摩擦を見るたび
二十世紀ほどを飛び越えて
考えさせられてしまう
*このあたりのことは『ヨーロッパとゲルマン部族国家』(
(Magali Coumert, Bruno Dumézil, Les royaumes barbares en Occident, Collection QUE SAIS-JE ? №3877, Presses Universitaires de France / Humensis, Paris, 2010,2016)
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