2025年12月16日火曜日

しずかな心揺らぎだけが

 

  

 

この秋

神保町の古本まつりで買った一冊に

1974年発行の「葛原妙子歌集」(三一書房)があり

4000円であったが

はたして

高値過ぎたか

どうか

 

いずれにしても

滅多に見つからないものなので

仮にどこかで2000円で入手できるとしても

手間や入手にまつわる時間差を思えば

余計に出してしまったかもしれない2000円の元は

あらかじめ取れている

古い物の入手というのは

そういうものである

 

400ページあり

「橙黄」「縄文」「飛行」「薔薇窓」「原牛」「葡萄木立」「朱靈」の

すべてを収める

昭和19年から45年までの集大成の価値は

わかる者にはわかる

わからぬ者には

入手したなどと洩す必要さえない

永遠の間隙を静かに保って

あたかも同時代を生きているかのような無視を

黙って向けておけばよい

 

おもむろにページを繰ると

「橙黄」のはじめ

「霧の花」に置かれた書き付けの

 

昭和十九年秋、単身三児を伴ひ信州浅間山麓

沓掛に疎開。防寒、食糧に全く自信なし

 

先ずは

打たれる

 

「防寒、食糧に全く自信なし」

という言い方の

珍しさに

この昭和短歌の女王の

世への心情の調整の仕方を

垣間見る

 

誰かの手になる選集と違い

次のような後記の読めるのも

作者本人の渾身の集では

うれしい

 

省れば、私に、私の歌らしいものが出來はじめたのは

敗戦を機會としている。

戦争に生き残ることによって

遅まきながら生きていることの偶然に刮目したからである。

思えば、戦争のある無しにかかわらず

生きているということ自體は、

死滅狀態の普通にくらべて特殊であり、常に偶然なのであろう。

とは言え、一點の曇りもない日、

戦争に生き残って空を眺めているこの偶然の不思議は

私自身にとって幾分過ぎたもののように感じられた。

少女時代、関東の大震災の只中で生き残った無我夢中も、

その後の大患も私を變えなかったにかかわらず、

この時與えられた偶然によって私は變った。

以後、歌は變ったことの一つの所産であった。

以來三十年近く、私は、

必ずしも安んじて歌を作って來たとは思っていない。

何よりも、さて、

歌おうとする自分の未成の一首に寄せる強いあこがれに

苦しんだからである。

だが歌われた歌は實に他愛なくこの憧憬を裏切り績けたのである。

と言って長い歌作りの閒に、

私に一首の歌の獲得がなかったというわけではない。

その陰に夥しい歌が切られ、流れ去っているにせよ、

私はいまその徒労を悔いようとは思わない。

さて、近頃の私には、歌を作ろうとするときの心躍り、

否、既にしずかな心揺らぎだけが確實に信じられる。

出來上った歌に屢々欺かれることを承知の上で、

これだけがなお、

作者である今日の私を生かし續けていると言じている。


昭和四十九年二月五日

              葛原妙子

 

 


「歌おうとする

自分の未成の一首に寄せる

強いあこがれ」

に苦しみ

その結果

「歌われた歌は

實に他愛なく

この憧憬を裏切り績けた」

とは

ものを作ろうとする

多くの人を

頷かせる述懐であろう

 

「近頃の私には

歌を作ろうとするときの心躍り

既にしずかな心揺らぎだけが

確實に信じられる」

というのも

創作者に

かろうじて許される

危うい悟達を

奇跡的に語り得た

貴重な言葉と

思える

 

 

 

わがうたに

われの紋章のいまだあらず

たそがれのごとく

かなしみきたる

 「橙黄」

 

 



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