2024年6月25日火曜日

ともに沼の上に立ち鴻鴈麋鹿を眺めたことがあった

 


 

 

孟子が梁の恵王に会った時*

恵王は

沼の上に立って

大小の雁や

大小の鹿を眺めていた

 

恵王は

賢者もこれを見て私のように楽しむのか?

と聞いた

 

孟子は

賢者であってこそこれらを楽しめます

賢者でなければ

この光景があっても楽しめません

と答えた

 

『孟子』巻第一の

梁恵王章句上の二にある

 

人民に慕われる

優れた王であれば

進んで人民が集って

美しく庭園を作り

そこに飼われる動物や魚も

王を慕い

安んじて暮らして

肥え太り

毛並みも整う

と孟子は語り継いでいくので

君主における

精神性や霊性の重要さを

王宮の庭園や池を使いながら

説いていく章といえる

 

王は賢者でなければならず

賢者であれば

同じ庭園や池でも

おのずと美しさは変わり

それを見る賢者たる王の側でも

庭園や池への見方が変わる

と孟子は伝えようとしている

 

とりあえず

恵王は沼に遊ぶ大小の雁たちや

大小の鹿たちを見て楽しんでいるのだから

孟子が仕掛ける賢者検定の

最低限のレベルを

恵王はパスはしている

と言えよう

 

だが

私にはそのようなことはどうでもよく

孟子が展開しようとする

精神の倫理学のあれこれにも

さほど心惹かれるわけでもない

 

むしろ

話の発端として

恵王が

大小の雁や

大小の鹿の遊ぶ沼の風景を眺めて

楽しんでいたことや

そこに孟子が来て

ともにその風景を眺めたことのほうが

一幅の慰安に満ちた淡彩画を見せられるようで

心の喜びとなる

 

恵王と孟子が

ともに

沼の上に立ち

鴻鴈麋鹿を眺めたことがあった

そうして

賢者論や王論が

ゆくりなく語り合われたことに

心は惹かれ続ける

 

 



 

 

*孟子見梁惠王、王立於沼上、顧鴻鴈麋鹿日、賢者亦樂此乎、孟子對日、賢者而後樂此、不賢者雖有此不樂也

 

 

 




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