2026年2月25日水曜日

時間の顔を見ている


  

 

ことさら意識を澄ましもせず

ボーッと目を開いているだけでも

時間というものの顔を見ているのは

たしかなこと

 

じゃあ

存在の顔は?

 

それはもう

もう

まわりに見えるすべては

存在そのもの

 

顔どころじゃなくて

存在の

本質そのもの

 

なんてことを

つらつら

思いながら

ボーッと目を開きながら

数日が

経っていました

 

いろいろ用事だって

仕事だって

していたんだけれど

時間の顔や

存在そのものなど

考えるのは

べつの運河で船を進めながら

なんだよね

 

べつの回路が

あるんだ

 

ボーッと目を開きながら

思ううち

「時間」

という言葉の使い方が

じつは

ずいぶん曖昧だったんだな

と気づいた

 

「今」も

「さっき」も

「次の瞬間」も

ひっくるめて

「時間」

と言ってしまいがちだけれど

それらは

同じように

「時間」

なんてまとめられないほど

違ったものだったのではないか?

思うようになった

 

ひょっとしたら

簡便にまとめて呼べるような

「時間」

なんて

ないかもしれない

 

だいたい

見る側の目のその時点でのありようも

(もし「時間」という語を使い続けるとすればだが)

「時間」だったのだし

「存在」だったのだし

思いも意識も

「時間」だったのだし

「存在」だったのだから

結局は

「時間」が「時間」を見ていたのだし

「存在」が「存在」を見ていたのだった

 

こんなことを

思っているうちに

また

数日が

経ってしまうだろうな

 

急に暖かい日が来たので

咲いた桜も

あるそうです

 

河津桜じゃなくて

日当たりのいいところの

ほんとうの桜です






2026年2月23日月曜日

浜に積み上げた角砂糖の城

 

  

ちょっとでも

「自分」の外のなにかに

だれかに

頼ってきた者は

時間の経過がもたらす分解作用の

根源的な破壊力で

浜に積み上げた角砂糖の城のように

溶解していく

 

この溶解は

異常でもなく悲惨でもなく

なにか必要があって

きみが胃に流し込んだ錠剤が溶けていくのと

まったく同じだが

その時の錠剤の「自分」があげる悲鳴を

きみは聞くだろうか

 

「自分」の外のなにかや

だれかは

時間によって作られている


たえず変化させるのが時間のつとめなので

いまきみを支えている

外のなにかや

だれかは

明日にはない


もちろん

数年後にも

数十年後にも

ない

 






この世のふつうから逸れよ

 

  

 

この世のふつうを信じて生きれば

異常がふつうとされているこの世だから

たましいの底まで毒液を行き渡らせられ

きみはやがて異常な衰えかたを辿り

異常な死体となって異常に弔われていく

 

ごく些細なことについてさえ

この世のふつうから逸れよ

 

大声で特定単語の連呼される場に群れる者たちや

添加物や着色料や漂白剤を摂取することの好きな者たち

マイクロプラスチックに肺胞を埋められて

痴呆化を進める映像や雑音で時間を埋める者たち

他人の作った管理養豚場のゲームやパークに

日々進んで意識を埋没させてサルコペニアしていく者たち

かれらの吐く気体の圏域から逸れよ

逸れ切れないのならば

かれらの吐く気体を無毒化する強力な術を

心身を総動員して稼働させよ

 

音には無音で

しかし時にはべつの周波数の音で

精神のノイズキャンセリング機構を発動して

あらゆる場に無の神を顕現させよ

 

かたち

光景

風景に対しては

視線で

凝視で

または無視で

または非焦点化で

この世のふつうという異常を

粉砕し

溶解せよ

 

躊躇なく

すべてを無力化せよ







放っておいたきみだから

 

 

 

ガザでのあれだけの殺戮を放っておいたきみだから

この先きみをどんな理不尽な悲惨が見舞おうと

他人にも世界にもきみはなにも要求などできない

放っておくだけのひとだと宇宙はきみを記録したから

カエサルのものはカエサルにという理屈どおり

放っておいたひとはさらに手厚く放っておかれる







風の吹き込む部屋のレースカーテンに投影した映像

 

 


 

幸福も不幸も言語でできている

それらは感情でさえなく

心の視神経のあやでしかない

 

言語の選択と配列替えで心は根本から変貌する

心の消滅も可能となる

簡易な室内装飾として白い壁にいかようにも貼り替えられる

さまざまな色のポスターのように

心は短期的な飾りとすることもできる

 

言語は思念そのものであり

言語の選択と配列を行う思念部分は

思念2と仮称すべきメタ思念である

 

思念はすべて過去だが

思念と言語の組み替えによって

過去になかったものを精神空中に噴出させうる場合がある

それの理解には

核分裂や核融合のイメージがよいかもしれないが

もっと地味な物理学的現象のほうがよいかもしれない

 

さらに進もう

 

個々人の世界認識も言語だけでできている

「自分」も言語でしかなく

その「自分」がいる現在環境の把握も言語でしかない

 

言語はつねに

眼球内の液体のようなものでしかないので

「自分」も現在環境把握も

風の吹き込む部屋のレースカーテンに投影した映像でしかない






風がつよい

 

 

 

雨が降っていたようだ

雨が降っていたようだが止んだようだ

 

風がつよい

 

雲が所有されたがっている

 

都会の道路に落ちた雨粒が雲に戻っていくには

だいぶ時間がかかるだろう

 

どこまでも

えんえんと白塗りされた道路が

見てみたい

 

その上を走っていく風が

はるか遠い砂漠の宿屋の看板を九時間後に揺らす瞬間を

見てみたい

 

白塗りされた道路に立って

だれも来ず

なにも起こらないのを

ずっと

感じ続けたい

 

夕暮れから夜に入っていく頃には

星が

ほんとうに事件だと

わかるだろう

 

やや

強すぎて

鮮烈だった太陽が

すっかり夜になってしまえば

バーで

ちょっと暗い顔をして

どんな酒だか

ゆっくり飲んでいたりも

する

 

風がつよい

 

ひとりだけで生きていけそうなほど

つよい

 





物質は裏切らない

 

 

 

踊れるひとは

ちょっとゆるやかめに

踊っているのが

いい

 

踊れないひとは

踊らなくてもいいから

腕をまわりで振ったり回したりして

まわりの気の

手ざわりを

つかみざわりを

確かめ

つかのまでも頼れるとっかかりや

足場のようなものに

しておくといい

 

揺れ続けても

立っていられるほどの

体幹と

足腰のちからが

必要になる

 

物質的なたましいを持つ必要がある

 

物質を侮るな

 

物質は裏切らない

 

 

 



耐えられないと言いながら

 

 

 

 

これまでの「じぶん」が終わっていくところだな

つよく感じる

 

中から押し上げてくるものに押されて

裂けて

こなごなに飛び散っていく

であろう

気が

している

 

そんな気がしながら

「人界」というものの残虐で醜悪な全容を見続けようと努めている

 

この「人界」が「じぶん」なのだ

 

どんな花々も

春のあたたかさや

うららかさも

裂けて

こなごなに飛び散っていく

予感を

抑えることはできない

だろう

わかっている

 

あわれなことよ

かわいそうなことよ

悲惨なことよ

 

あらかじめ

詠嘆句を発音してしまっておきたい

 

たぶん

耐えられないひとがほとんどだろう

 

それでも

耐えられない

耐えられない

と言いながら耐えていく

 

えんえんと

見渡すかぎり

ものが壊れ尽くしたところに

咲き出る花を

きれいだと思いながら

耐えていく

 

耐えられない

耐えられない

言いながら

 





梅じゃないように見える感じ

 

  

 

咲いた梅を

たくさん

見て歩いているうちに

 

梅ではないよ

 

梅ではないよ

 

聞こえてきた

ようだった

 

梅と呼ばれるのを

梅たちは

望んでいないようだった

 

それからは

けっこう

たいへんだった

 

と思わずに

見て

歩きまわり続ける

 

と言いならわし

思いならわしてきたのを

と思わないようにする

というのは

たいへん

 

でも

努力してみた

 

と浮かんできても

言葉が

意識に引っかかり続けないように

すーっと

薄まっていくように

力が入らないようにする

うすい

透明な努力を

してみた

 

完全に

うまくいったとは思えないが

これまで

と呼んできたものが

じゃないように見える感じは

ちょっと

つかめてきた

 

じゃないように見える感じを

ほわほわ

つかもうとしながら

見続け

歩きまわり続けた

 






2026年2月20日金曜日

洗礼者ヨハネの狭量さに注目すると


 

 

 

 

洗礼者ヨハネを殺させたヘロデ王は

近現代小説のキャラクターにふさわしいような

矛盾を抱えていた

 

ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、

彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、

なお喜んで耳を傾けていた

『マルコによる福音書』620

 

このように認識し

態度を示していたにもかかわらず

ヘロデ王は

ヨハネに批難されていた

 

ヘロデ王は

自分の兄弟であるフィリポの妻の

ヘロディアと結婚していたが

このことについて

「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」

とヨハネから批難されていたのである

 

自分たちの結婚について難じられたことで

妻のヘロディアはヨハネを恨み

殺そうと思っていた

 

ヘロデ王の誕生日祝いの宴会で

ヘロディアの娘であるサロメが見事な踊りを披露し

「欲しいものがあれば何でも言いなさい」

「この国の半分でもやろう」

とヘロデ王に言われると

人口に膾炙した有名なシーンとなる

 

なにをもらったらいいかと

サロメは

母ヘロディアにたずねるのだが

ヘロディアはここで

「洗礼者ヨハネの首を」

と娘に言う

サロメはヘロデ王に

「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」

と要求することになる

 

この個所を読むと

宴での気まぐれな発言を

ヘロデ王が取り消せなくなったのを利用して

娘にうまくヘロディアが入れ知恵し

「正しい聖なる人」であるヨハネが斬首されてしまう

という不条理で残虐なシーンと

もちろん見える

 

しかし

見方を変えると

すべては洗礼者ヨハネの狭量から来ている

とも言える

 

「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」

というふうに

ヨハネは律法にこだわっている

彼の「正しい聖なる人」ぶりは

ユダヤ人が作り

守るように伝えられてきている律法を守るところにあり

いくら

「主の道を整え、

その道筋をまっすぐにせよ」

と教えつつ

悔い改めの洗礼を宣べ伝えていたとしても

あくまで

これまでのやり方の枠内での改革を主張していたに過ぎない

 

ところが

洗礼者ヨハネのこうした考え方は

なによりもイエスが鋭く批判する態度そのものである

『マルコによる福音書』の7章にはこうある

 

イエスは言われた。

「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを

見事に預言したものだ。

彼はこう書いている。

『この民は口先ではわたしを敬うが、

その心はわたしから遠く離れている。

人間の戒めを教えとしておしえ、

むなしくわたしをあがめている。』

あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。 

 

イエスが伴っていた集団には

おそらくは

ベンガルの女性聖者のアーナンダマイー・マーAnandamayi Ma

https://en.wikipedia.org/wiki/Anandamayi_Ma

に匹敵する

高度な悟りに達したマグダラのマリアも居り

このマリアはイエスの伴侶だったとも伝えられ

彼女による福音書も伝えられているのだから

「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」

といった考えをイエスが持つはずはなかっただろう

 

霊的な真実のありかたへと脱皮し切れない洗礼者ヨハネの

こうした狭量さに注目すると

『マルコによる福音書』や『マタイによる福音書』における

洗礼者ヨハネのエピソードは

歴史的な出来事の一端を描いた物語として読まれるよりも

霊的進化の寓話として読まれるべきだとわかってくる

 

「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」

などということにこだわり

「人間の戒めを教えとしておしえ」

「人間の言い伝えを固く守っている」ヨハネ段階から

「斬首」を経験して

イエス段階へと進んで行く過程を

洗礼者ヨハネの処刑エピソードは示しており

新約聖書のその他の全編も

霊的進化の過程を

イエスのイメージを使った喩えで伝えようとしているものと読むべきだと

読みにおける態度変更が示唆されているのだ

 

「斬首」され

切り落とされるのは

「律法で許されていない」などとこだわり続ける

精神の旧体制の世俗的知であり

この契機となったのは

「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」

と言われても

「何を願いましょうか」

と母親にたずねるほかないような

無欲な「少女」

インドのクリシュナ神が

毒蛇を征服したあとでカーリヤの頭の上でするように

踊る属性しか帯びていない

新訳聖書の中では

彼女はただ「少女」と呼ばれ

せいぜい「ヘロディアの娘」と呼ばれるだけで

サロメなどとはひと言も呼ばれていない

彼女には現世的な人格が与えられていないのだ

 

内的矛盾を抱え込んだ苦悩の人

ヘロデ王の設定も

寓話によって霊的進化を教えるテキストである福音書においては

偶然ではありえない

悔い改めの洗礼を宣べ伝えつつも律法遵守に固まっているヨハネを

こういうヘロデ王にぶつけ

人格のない軽やかな踊り手である「少女」

古い思考や習俗を切り落とす契機として闖入させるところに

霊的修行に努めたイエスの集団の秘法がある

 

 

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、

「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。

そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、

彼らの中に立たせて、言われた。

「はっきり言っておく。

心を入れ替えて子供のようにならなければ、

決して天の国に入ることはできない。

自分を低くして、この子供のようになる人が、

天の国でいちばん偉いのだ。

わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、

わたしを受け入れるのである。」

『マタイによる福音書』 181-5