2015年6月14日日曜日

じぶんだけに



もっとも美味しかったフランス料理は
たったひとり
広尾の料理店で
ゆっくりと
コース料理を食べたとき

昼のコースで
もう時間も終わり近く
他にはだれも客はいなかった
前菜を終えた頃に
イタリア人が数人入ってきて
遠くの席に着き
すこし賑やかになった

好きなように
ナイフとフォークで分け
小さく口に運び
しゃべる必要もないものだから
好きなだけ噛み
ときどき
口に運ぶのをやめて
庭のほうに目をやったり
店内の絵画の
気づきづらい美点を見つけたり
構造を見抜いた気になったりして
また皿のほうに戻る

りっぱなグラスにもらった
赤ワインも
ゆっくりと口に含む
グラスに唇をつける前は
唇をナプキンで拭い
肉料理から付いた油を除いて

ほかのたくさんのことにあわせ
そんなグラス扱いのしぐさも
教えてくれた友の死を
はっきりとその祖国に登録するために
フランス領事館を訪ね
領事と話し
書類作成を終えて
あゝ
長かった闘病の付添いも
数日前のふいの死によって終わり
すっかりひとりになって
よくあれだけ
自分を殺して友を助けたもの
次々と調整のつかなくなる紛糾を
よくもあれだけ
持ちこたえ続けたものと
本当にひさしぶりの
じぶんだけでの休息のように
領事館からの帰り
ひょいと入ってみた
フランス料理店

死んだ友と
いっしょに入った気持ちで――
などとは言わない
ながいこと会っていなかった
会えないでいた
じぶんに
ようやくひさしぶりに会えた気になって
たったひとりで
じぶんだけといっしょに
好きなように
好きなだけ時間をかけて
食べた
閑雅なフランス料理

―やあ
戻って来たね
じぶんよ
苦しかっただろう
よくがんばったじゃないか
温かく
ほんとうにしっとりと
じぶん自身に
じぶんだけに
迎えられて



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