衣食が足りるとすぐ社会的に自己表現したがる。
社会のなかでやはり上へ上へと出ようとするでしょう。
それがやっぱりサークル詩ですよ。
上へ上へ―社会と同じ構図なんだ。それは違うんだな。
芸事は物好きのすることですから。
堀川正美「現代詩の問題点と方向」
(「現代詩手帖」1966年3月号)
歌に添えられた研究者たちの解説やエッセーには
積まれた研鑽から滲む有益な指摘や
含蓄の深い示唆や考察のあるものもあれば
あらずもがなの文に堕しているものもないではない
とはいえ日本の古典歌の手軽な集大成としては貴重だし
外に行くにも携帯しやすい装丁で
けっきょく全60巻もあるうちの殆どを買い揃えてしまった
なんとかいう出版社の日本歌人選
早稲田大学で文芸専修の助手をしていた頃から
8年も短歌創作を教えていた頃まで知り合いだった
日本古典文学の教授たちにもこれに関わっている人がいて
どう見てもたくさんは売れそうにないんだけど
解説付きの古典歌人の手頃な選集の準備や編集で
この頃忙しくってねぇと洩らされた時に
ははァ、そういうのを出すのは○○○社あたりでしょ?
と言うと「さすがにわかってるなぁ」と言われ
盃にまた酒を注いでくれたりしたものだった
後鳥羽上皇や藤原良経、細川幽斎などに限らず
このシリーズのどれかを毎週のように手に取って
あるべき日本語の詩歌について自分の中で調整し続けるが
このあいだ、ふと、思い出したように気づいたことは
この出版社の…あれは何といったか、ある編集者から
「おまえのような人間の屑は見たこともない」と
罵倒されたことがあったなぁということ
あれはいつのことで何処でのことだったかなぁ…
そうそう、あれは神保町のラドリオでの会の後
そこに集ったオヤジたちと二次会で入った中華屋でのこと
あれは何という名だったかな、ハシモ…とかいったかな、
ある詩人の評論集を編集した男が私に向けた罵倒だった
おまえのような醜い人間の屑がよく生きていられるとか
本当にこれほど醜いゲス野郎を見たことがないとか
安手の小説でもなかなか使えないような紋切型の
ややお歳を召した頭脳からしか出て来ようのない罵声が
私ひとりに向かって放出されそれがこの編集者の
わびしい快楽にどうやらなっているようだったのだが
この男だけではない、ここに集った詩人のお仲間どもが
どいつもこいつも私ひとりに向かって罵声の放火を
えんえんと浴びせまくったものであったゾ
理由は簡単なことで、当時私がやっていた詩集団の
ひとりだった詩人が評論集を出そうというので
出すのはべつにかまわないがどうせ出すのなら
おなじ集団のメンバーでもあるのだしなるたけいいものを
と思って収録する文章の取捨や編集方針などに
私が批判を行い、はては忙しいのにわざわざ文章を書いて
その詩人の思考法について根本的な批判を行ったため
(これも詩集団のメンバーに対してはあたり前のことで
あらゆる点で少しでも素晴らしくなってもらわなければ
困るわけなのだ、そのための集団なのだから
そうでもなければ「まぁ、すてきな御本になるでしょうねぇ
愉しみです、はやく読みたいなぁ」…とでも
言っておけば、もちろん、よろしい)
こちらとしては忙しいところわざわざ文章まで書いて
その詩人をもう一段磨き上げてやろうとしているのに
なんだこの態度は、と思っていたものだから
出版記念会とやらにも義務感から
わざわざ出て行ってやったものだった
その席で詩人みずから「よく出てこれたな」と浴びせてきて
喧嘩ならほうぼうでやってきている私だったし
そもそも早稲田大学の文科の批評し合いやクサし合いは
こんな程度の甘いものではないのが常だったので
こんな本なんて出版するほどの価値もない、あれだけ
編集を変えろと言ったのに、シロウトの美術論から
無名のB級C級詩人についての詩論から
ごったまぜに入れ込んでどうしようもないったらない
…みたいなこともその席で言ったわけだが
そこに集まった頭の硬化した中年どもはこれで
怒りまくったわけだったらしい
ハシモ…という編集者は自分がこの詩人を騙くらかして
どうでもいい本を作って金を巻き上げ(なにしろ
自費出版なんだから出版社は損しないわけだ、
そういう手管がいっぱいなのはわかっていたから
やめさせたかったのだが、いちおう古典出版じゃ
名のある出版社から出せるからと目がくらんで、
なにやってんだ、こいつ、と私は思っていた)
いちおう最後まで表面は取り繕うつもりで
私への罵詈雑言の総攻撃をやらかしたらしいが
私がどれだけ正しかったかはその詩人の評論集が
いまじゃ誰の口にも上らないばかりか
なによりなんとかいう出版社が彼の本を出し続けようとしない
出版社というのはこれぞと思った作家のことは
ずっと面倒をみて支え続けるものなんだよ
だいたいハシモ…というやつはこの詩人がどれほど
素晴らしい逸材でその本を出せるのは幸せであり
かつ光栄至極であるとかなんとか言っていたんだがね
だったら自分の会社で何冊も出し続けてやれ
そうしないのはやっぱり商売上の嘘だったってことだ
それが見え透いていたから私はあんなかたちに
評論集をまとめてしまうことに反対したのだった
手帳を見ると2006年10月30日のこととわかる
その詩人やお友だちオヤジどもからの罵詈雑言の
集中砲火を浴び続けて「滑稽の極み」と記してある
私はしっかり理屈で反論しようと声を荒げたが
連中はようするに私がゲスで人間の屑で
どこにも簡単には見つからないほどのバカで
といった内容をクダクダとじゅんぐり順番に
言い募るばかりでようするにどうしようもない
愚鈍な煙草ふかしで飲ん兵衛のオヤジの塊であった
議論さえ成立しないこんな連中と言いあって
勝ちも負けもないどころか理を立てる価値さえないが
それでも集団から砲撃してくる愚にもつかない
頭ごなしの(つもりらしい)難詰だの罵りだのを
たったひとりでいちいち細かくかわしたり
砕いたり反射したりしていたものだが
ときどき飛んでくるどうしようもなくオバカな
愚劣な言辞には大笑いさせられることもあって
いちばん面白かったのは「お前はまるで
花田清輝のような卑劣漢だ、恥を知れ」というので
なんだ、こいつらは吉本隆明vs花田清輝の時代に
まだ生きているつもりなのか
ここはいったいいつの時代なんだ、こんなバカどもが
蠢いているこのチンケな中華屋の二階は?
などと笑い続けてしまったものだった
だいたい花田清輝は中学時代以来大好きな作家で
単行本の初版をいくつか今でも手元に置いているぐらいで
花田清輝のようだなって言われてはもうもうもう
嬉しくなっちゃってしょうがないのであったネ
ちなみに吉本隆明の論考もあれこれと大好きだけどネ
しかしながらB級C級詩人の世界では私を悪者に仕立てようとした
偏った話がじわじわと広められていったようで
鶴屋南北先生作の痛快な悪役たちのレベルには至らなかったろうが
あっちこっちとB級C級詩人たちとのつき合いは廃れていった
なにかというと不味い居酒屋でくだらない談義をしたり
むかしの話をとくとくと聞かされたり
詩がわかっているのは自分だけだとクダ巻かれたり
県の詩人会はなんでオレを入れないんだとか
商売や金を馬鹿にしたようなことをいっているくせに
自分の出した詩集の売行きをめめしく気にしたり
なにより、ダメな詩を正面切って「ダメでしょ、これ?」
と言えない微温的つき合いに心底から嫌気がさしていたので
終わっていくつき合いが次々出てきたのはこれ幸いだった
詩歌なんぞどっちに転んでもお遊びに過ぎない
ダメな詩集を何冊出したって金をかけたってダメはダメで
どうせ自慰をするんなら金のかからないやり方をしたら?
と言いたくなるのを言わないでいるのに嫌気がさし過ぎていた
ハシモ…とかいう編集者に罵詈雑言を浴びせられる
きっかけになった詩人にはしかし好い詩集もあって
それがもっと世に広まらないのは残念なことだと思うし
あれらはいいものだと今でも言い続けているが
あんなことがなければもっと彼について文章も書いて
喧伝する労もとっただろうに残念なことではあるナ
とも思うのだがなんだかんだといってこんなふうなのが
まぁ人生というものであるのだよネ
あのハシモ…某もあの時あれほど口を極めて罵った相手が
自社の古典詩歌コレクションをこんなに買っていてくれるとは
(それだけじゃないぞ、古典好きの私は
(そこの出版社の相当数の研究書を蔵書している
きっと思いもしないでいることだろう
こんなこともまぁ人生の面白いところということだろうネ
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