2015年8月18日火曜日

誰もが予備軍に過ぎずわずかの時間差があるだけの歩く影たち


   人生は歩く影にすぎない。
     シェイクスピア


見舞ったのはその病室のひとりだが
四人部屋なので他にも三人横たわっている
死に至る重病の末期というのではないが
死に至る老いの末期でみな寝たきりになっており
もう自力でベッドから出ることはできないし
食べるにも自力で口に運ぶことはできない
みなそれぞれに認知症なので反応も一様ではない
口に食べ物を運んでもらえばまだ咀嚼する人もいるが
もう流動食しか受けつけない人もいる
うまく嚥下できなくなり流動食も危険な人もいる
見舞った人ももう嚥下できず点滴に切り替わっている
点滴に替えれば飲み込む筋肉と舌はどんどん衰えていくので
二度と口や食道や胃からの食事に戻ることはない

ひとりひとりを見まわすと誰もがほぼ同じ顔をしている
顔や頭の骨格がくっきりとしてテカテカした面のようだ
口を半開きか大きく開いて寝ていたり虚ろに目を細く開いている
ときどき鼻腔の奥で噎せるようでゴスゴスと鼻で咳き込む
開いた口の中では舌がゼンマイの芽のように裏を見せている
開きっぱなしで口内が乾燥しっぱなしなので喉も咳き込む
入歯を取り去った後のまばらな歯と歯茎がずっと見えている
手の甲などは意外と痩せて見えないものだが
ろくに食べもしないし運動もしないので腿も細くなっている
細くなった腿を見るのは寝巻の上からでも痛々しい
点滴500mlが下がっていて透明な液がまだ残っている
成分を見ると生理食塩水とブドウ糖しか入っていない
これではどんどん衰弱していくばかりだが
ブドウ糖やアミノ酸を含む高カロリー液は使わないのか
けっきょくは衰弱させていったほうがいいというわけなのか
介護しているかのようで意識レベルも体力も落としていく
ただこれだけのことをしてもらうにもずいぶんお金が出ていく

きっと優しい有能な看護師ふたりほどを家に雇って
介護用の特別室に寝かせて世話をしてやればいいのかもしれない
そうすれば意識の晴れ間には談笑もするだろうし
毎日入浴もさせてもらえれば身だしなみもしてもらえるだろう
顔つきから気分を読み取ってふさわしい音楽をかけてもらったり
好きな味のお茶や氷菓をちょっとずつ口に含ませてもらったり
本を読んでもらったり今日のニュースを語ってもらったり
季節の花を枕元に置いてもらったりランプを調節してもらったり
陽の移ろいに応じてカーテンやブラインドを開け閉めしてもらった
そんなことのためには看護師ひとりに月30万も払えばいいのか
ふたりなら60万を毎月支払って諸経費あわせて80万ほどか
家の改造費もいるから他に数100万も要るだろうか
そのくらいにしてようやく人間的な終末を過ごさせてやれるのか
年間ひとりの寝たきり老人に少なくとも800万はかかるのか

人間は最期まで手で握る力だけは強いままだというが
確かにこの時期の人たちもそうでいつまでもこちらの手を離さない
眠ったままなのかそれとも何処かでほんの少し起きているのか
手に触れてきた他人の手を強く握って離さないでいる
この力がどこまで続くのかどこから失せて行き始めるのか
肉親や友人や看護師はそれを見定めていくことになるのだろう
自分たちの十年後や数十年後の姿をあらかじめ見収めておくように
見てきたかぎりではひとりひとりの命の終わり方はいろいろで
なかなか水に浸かり切らないシーツを洗濯する時のように
水面に出ている部分を手で何度も水に浸け水に浸けしながら
ようやく濡れたシーツの中の空気を出し尽させて沈ませるのに似て
最期まで来ている人にはある時点から沈ませる作業が必要になってくる
最後の最後まで治そうとし救おうとする気持ちはもちろんあるが
もう自力で体を動かせず意識も飛び飛びで月100万も出せない場合は
治そう救おうという作業の実際はいろいろ個別のかたちを採りはじめる

それにしても開けっぱなしの口がもう少し乾かないような
簡便なフェイシャルマスク様の薄いマスクなどは作れそうではない
鼻の穴と口だけを粗い潤った網で覆って頬に広げて貼るようなマス
意識も朦朧となって動けなくなった誰もが口を開けっぱなしにするなら
口内の乾燥を防ぎ感染を防ぐそんなマスクも開発しておいても悪くない
そう思いながら病室の四人の老人たちの顔を見まわし直すと
能面にあるような頬骨のつるつるした輪郭がくっきりと浮き上がっ
いったいどこへと向かって眠っている人たちだろう…
蛹のようにあるいは人のかたちの容器か舟のように
とにかくも然るべき時が来るのを待ち続けているのが見える
病院の外へ出て健常者たちとすれ違ってもきっとが見えてしまうだろう
此処にいる蛹のようなあるいは人のかたちの容器か舟のような
息だけしつつほんのちょっとだけ先に動かなくなった人たちの
誰もが予備軍に過ぎずわずかの時間差があるだけの歩く影たちなのだと





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