2015年8月28日金曜日

むかしは友がいっぱいいたような気がしていたが




むかしは友がいっぱいいたような気がしていたが
友だと思い込んでいただけのことなのが今はよくわかる
今ならもっと正確に知り合いとだけ呼ぶたぐいの人たちを
友なのだと思い込んで友情はどうあるべきか御大層に考えてもいた
相手側は同じように思ってくれてはいなかったのが
後に起こっていったさまざまな出来事の結果今はよくわかる

友になるかもしれない
友になってくれればいいなと思う人が
今でも出てくることはあるがそんな夢に倒れ込んでいかないように
していなければいけないなと思うのはもう少年でも青年でもないか
アメリカ映画なんかで友情がいっぱい描かれるのは国情もあろうが
やはり滅多にないことだからでもあるのだろうか
日本映画で友が描かれるといつも居酒屋や浜辺がらみだったりするのは
友が告白めいたことのできる相手と認識されているからだろうか

いろいろな悩みごとを話せる相手が友だという定義はもっともらしいが
せっかく一緒にいる時間を悩みごとなどを話して
時間を浪費してしまうのがもったいない人こそ友だとも思うし
だいたい居酒屋などで一緒にいる時間が多いなんて
ただの飲み友だちや一種の悪い仲間に過ぎないとも思える
本当の友と会うのがいつも居酒屋や喫茶店やバーでは情けないが
今のこの国での生活の常態として他のあり方がないという侘しさはある
友というのはきっと時代や環境に甚だしく影響されるテーマで
だとすれば友なんてどうやらもともと友ではないのではないかとい
話にもなってくるのは友というのが本来永遠性や不変性を持っているから
持っていてもらいたいとの希求がこちら側にあるから
そんなものの片鱗もない友など居てもしょうがないのだから

こちらの生活が変化するたびに剥がれ落ちていった友らは
こちらが持っているものや得たものを持っていなかった人たちで
ようするに運命や生活上の環境・条件・物品などの均衡や均等
そんなものが危うげにも互いの間にできあがっている時だけの
はかない小さな共同体の幻だったのが今はよくわかる
だから友というのはろくな物を持っていない若い頃に大量発生する
人生に歴然とした差がさほどない頃にできやすい幻想
その頃の幻想を騙し騙し維持していくのが人間には課題となるのか

ほろりぽろりぽつりと一枚一枚幻想は剥がれ落ちていきながら
最後まで残った幻想もそうそうに手放して冷笑しながら老いるか
それとも固く掴み続けながら相手の無理解やふがいなさを
そう、多くの老人がやり続けていくように
毎日毎日友でもない介護師や通りすがりの人たちに語って
ぶつぶつぶつぶつ念仏のように批難し続けていくのか
ようするに友という観念の確定も限界認識もはっきりせずに来て
ひとつの夢や希望の綻びていく終わり
いわば賽ノ河原に来てもなおもぶつぶつぶつぶつ
あいつはひどい、友の名に値しない、あの態度はなんだ、あの言い草は…
などとヘンな生物のようにあるいは妖怪の一種のように
呟いたり他人に声を荒げたりしながら衰え声も低まっていくのを
受け入れていく他ないのか人界というところでは



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