むかしは友がいっぱいいたような気がしていたが
友だと思い込んでいただけのことなのが今はよくわかる
今ならもっと正確に知り合いとだけ呼ぶたぐいの人たちを
友なのだと思い込んで友情はどうあるべきか御大層に考えてもいた が
相手側は同じように思ってくれてはいなかったのが
後に起こっていったさまざまな出来事の結果今はよくわかる
友になるかもしれない
友になってくれればいいなと思う人が
今でも出てくることはあるがそんな夢に倒れ込んでいかないように
していなければいけないなと思うのはもう少年でも青年でもないか ら
アメリカ映画なんかで友情がいっぱい描かれるのは国情もあろうが
やはり滅多にないことだからでもあるのだろうか
日本映画で友が描かれるといつも居酒屋や浜辺がらみだったりする のは
友が告白めいたことのできる相手と認識されているからだろうか
いろいろな悩みごとを話せる相手が友だという定義はもっともらし いが
せっかく一緒にいる時間を悩みごとなどを話して
時間を浪費してしまうのがもったいない人こそ友だとも思うし
だいたい居酒屋などで一緒にいる時間が多いなんて
ただの飲み友だちや一種の悪い仲間に過ぎないとも思える
本当の友と会うのがいつも居酒屋や喫茶店やバーでは情けないが
今のこの国での生活の常態として他のあり方がないという侘しさは ある
友というのはきっと時代や環境に甚だしく影響されるテーマで
だとすれば友なんてどうやらもともと友ではないのではないかとい う
話にもなってくるのは友というのが本来永遠性や不変性を持ってい るから
持っていてもらいたいとの希求がこちら側にあるから
そんなものの片鱗もない友など居てもしょうがないのだから
こちらの生活が変化するたびに剥がれ落ちていった友らは
こちらが持っているものや得たものを持っていなかった人たちで
ようするに運命や生活上の環境・条件・物品などの均衡や均等
そんなものが危うげにも互いの間にできあがっている時だけの
はかない小さな共同体の幻だったのが今はよくわかる
だから友というのはろくな物を持っていない若い頃に大量発生する
人生に歴然とした差がさほどない頃にできやすい幻想
その頃の幻想を騙し騙し維持していくのが人間には課題となるのか
ほろりぽろりぽつりと一枚一枚幻想は剥がれ落ちていきながら
最後まで残った幻想もそうそうに手放して冷笑しながら老いるか
それとも固く掴み続けながら相手の無理解やふがいなさを
そう、多くの老人がやり続けていくように
毎日毎日友でもない介護師や通りすがりの人たちに語って
ぶつぶつぶつぶつ念仏のように批難し続けていくのか
ようするに友という観念の確定も限界認識もはっきりせずに来て
ひとつの夢や希望の綻びていく終わり
いわば賽ノ河原に来てもなおもぶつぶつぶつぶつ
あいつはひどい、友の名に値しない、あの態度はなんだ、 あの言い草は…
などとヘンな生物のようにあるいは妖怪の一種のように
呟いたり他人に声を荒げたりしながら衰え声も低まっていくのを
受け入れていく他ないのか人界というところでは
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