2016年2月12日金曜日

学び学び学び学び学び学び学び学び学び学び学び続けていく


     「知恵は疲れる。何をしてもー報われることはない。欲求するべきではない!」-こんな新しい石板が、みんなの市場にまで掲げられていた。
   砕いてしまえ、おお、兄弟よ、そんな新しい石板なんか、砕いてしまえ!それを掲げたのは、この世に疲れた連中、死の説教者、それに牢屋の番人だ。なにしろそれは、奴隷になれ、と説教しているのだから!-
   連中は、学ぶのが下手だった。最高のことを学ばなかった。学ぶのが早すぎた。急ぎすぎた。つまり連中は、食べるのが下手だったのだ。だから例によって、胃をこわしてしまった。―
   -つまり連中の精神は、こわれた胃なのだ。それが、死をすすめている!じっさい、兄弟よ、精神は胃なのだ!
ニーチェ『ツァラトゥストラ』(丘沢静也訳)




おもしろそうな生物学の本や
ガンについて新たな視点を示す本があると
いまでも買い込んだり
注文してしまう
友を奪った病の本質や治し方を
いまでも頭のどこかでは考え続けているから

医師でも生物学者でもないから
わたしの認識や判断は隙間だらけで
素人でもなんとかついていける本を読むたび
遺伝子学や生化学の詳細な基礎を
もっと確実に勉強したくて堪らなくなる
しかしわたしには他の専門があるから
そこまでやっている暇はなかなか今生にはない
やはり大好きな素粒子論や物理学の他分野の
数式だけで叙述される詳しい教科書を開く時のように
遺伝子論の先端を扱う書籍など開けば
楽しすぎる迷宮をあまりに公然と示されて
抗しがたく魅惑されながらくらくら眩暈がする
時どきそうした本を買ってしまって
数か月読書に没頭することもあるけれど
他の分野に頭を戻してしばらくすると
執拗な復習をくり返さない結果情けないことに
初心者の知識量に戻ってしまっていたりする

ルネサンス期のピコ・デラ・ミランドラは
31歳で死ぬまで才気煥発の万能の学者だったが
ある分野に関わり過ぎて思考が停滞するのを感じるや
自分の思考力の鈍さや愚かさを脱ぎ捨てるために
サッとページをめくるように新たな専門を学び始めたものだった
人間は自由意志によってなににでも変身できると
ピコは主張し続けて主著を書いたものだったが
たしかに思考や意識はいくらでも変身をくり返していける
聖書をヘブライ語で読んだかと思えば
プラトンをギリシャ語で読んだピコの教養ベースに
あのルネサンス期にあってアラビア語がなかったはずはないが
彼はイスラム神秘主義者たちの簡素で深い詩編も
たくさん読み込んでいたものだったろうか
メディチ家のアカデミーに集まってくる世界中の知的情報に触れて
アジアの新旧の言語もいずれは学んで
中国の漢詩も史書も日本の神話体系も珍しい形式の詩歌も
原文で読みあさろうと決意を固めていたものだったか

専門分化が極端に進んだ21世紀の知はわびしい
堆積が膨大すぎるのである分野を選んだらそこの領域の
亡者に皆なって思考活動を終えて逝きがちになる
あらゆるテキストを対象とする人文の荒海に身をおいて
わたしなどはまだまだ自由に乱暴に領域を縦断できるが
テキストやテーマを絞ったり縦覧したりする現場で
実際に効果的に使用できる基礎能力を鍛え続けるのは
これはこれで至難の業でもありトレーニングも要る
このあいだ近代語訳で読み直したソフォクレスの
『オイディプス』や『アンティゴネ』のあまりに見事な
劇性のドライブや人物造形の鋭さに感銘を受け直し
ふたたび古代ギリシア語の復習を始めはしたものの
昨年末からニーチェを読み直すためにドイツ語を進め
まさにピコたちを読みためにイタリア語も進めている身には
21世紀の知のわびしさはなにも時代のせいなどではなく
あくまでどこまでも自分の知力の脆弱さや疲れやすさに
すべての原因があるのがよくわかっている
たまたま自分のいる極東の列島の方言だけでものを読み
ものを書き考えてすべて済ましてはいけないことばかり
日々つらく認識させら続けているものの
ピコ・デラ・ミランドラよ
あなたがもしこの列島に今の時代生まれ変わってきたら
どのようにこの知の洪水のなかを泳ぎ切って
どうにか自認しうるような意識と思考の明晰を維持できるか
それをどこかの立ち飲みのカフェあたりででも手短に
世間話ふうに教授してもらいたい気もするが
いや ピコ・デラ・ミランドラよ
わたしこそ試しに極東の方言の中に生まれ変わってみたあなた
巨大な都市の絶えざる生活のうねりのなかで
疲弊もせず腐らずいくつかの領域に安住して老後へ暗んでもいかず
古典語の復習とまだ使いこなせぬ現代語の数々を学び続け
紛糾甚だしいアラビアの地にかつて生まれた神秘主義詩歌の
あれら素晴らしい人類的英知をたったひとりで東京の地で繙きなが
肉体の老いゆくにつれいよいよ古典語でギリシアをラテンを
ヘブライを自分の脳内に蘇らせながら
日本の古典や中国の古典の知の親炙にも浴していきたいもの
ある時期まで勝手に成長していったかと思えば
今度は勝手に衰亡していく肉体など何ほどのもの
精神の要求に見合った次の肉体の形成が可能だと確信している
わたしたちは次のまた次のそのまた次の
学びの継続に向けて毎瞬毎瞬企画を投じていかなければならない
人生のどの時点であれなにかを成したとか成さなかったとか
思い安らいだり思い侘びたりすることのなんという空しさ
まだ知り尽くしていない厖大な知と経験の海が宇宙の本質なのだか
逝く者よ逝く者よ幸いなるかなと『般若心経』の呪文のように
軽く唱えながらわたしたちは移り続け進み続け学び続け
そう学び学び学び学び学び学び学び学び学び学び学び続けていく



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