2016年2月12日金曜日

索引詩のほうへ



詩形は意識を引き摺る
感情表白優先や比較的近い価値観に書き手を従属させようとする
たかが数十年の詩史に書き手を屈従させようとする
これに抵抗するには誰にも併走しようとせず
人間性だの進歩だの温かみだの
あるいは逆に冷静だの理性的だのという表現の陥穽に落ちぬようにし
たとえば私的備忘録の器としてだけ事務的に使用するのがよい
昨夜わたくしは城の中階にある書斎を整理していて
数十年前の政治学研究の際に作っていたカードを久しぶりに見直し
6畳ほどの部屋にいっぱいのカード棚に整理されたそれらは
どれを見ても記入した当時の思念をすぐに思い出せるほどで
わたくしは自分の記憶の逞しさに驚いた
とはいえカードを見ることではじめて情報も思念も蘇るわけで
そうでない限りは忘却のかなたに時の流失によって葬られていた
そのことにわたくしは深く落胆し傷つけられ直した
かつて記した政治の主義概観のカードに
わたくしは民主主義⇔権威主義というメモを見直し
それは同じカードに同時に記された自由主義⇔全体主義のメモとともに
昨今の政治論的迷妄を一掃する突破口を与えてくれる気がした
自由主義と権威主義の合同は矛盾せず
民主主義と全体主義の合同も矛盾しないとわたくしは明記しており
トクヴィルやミルやアクトンは多数者の専制を懸念したと注記もしてあり
今後の課題としてトクヴィル+ミルの書簡の検討もせよとか
ハイエク『自由の条件』を詳細に検討せよなどと赤字で記してもあったが
あゝこれらをわたくしは忘却したまま十数年を過ごしてきていたことに
言い表わせないほどの情けなさを味わっていたのだった
いくら知を貪ってそれを整理し記録したところで
記録板を見直さねば蘇らないのではいったい学習や経験や
はたまた思索になんの価値があろう
そう苦悶しながらわたくしは詩形の利用を考えはじめていた
もともと古代において詩形はより効果的な記憶や備忘の具とされた
そうした利用法をなぜ21世紀に蘇らせてわることがあろう
古代ギリシアのソクラテス以前の哲学者は詩の形で思想を書き留めた
そこには感情や叙情の一片も宇宙についての思弁のみがあったが
それらはまさしく詩形のすぐれた知的な使用法のひとつだった
時にはフランシス・ジャムのような田園派も現われはしたが
近代は詩形を都市文化の中で方途を失った若者の感情表白の具にし
疲れた知性が本を捲りながら慰安の時を求めようとする際の友とし
だが感情は所詮感情に留まりいかに新たな印象を装おうとも
人類知を深く革新的な方向に導きうるものではない
近代詩は学びと成長を止めた者たちの慰安の道具であるに過ぎない
本当に進み続ける者たちはある時点でかならず詩形を捨て
散文や数式での記述や表現に進んでいく
それを勧めて行った時点でふたたび詩形に戻る時には
彼らの全思索の索引となるようなごく簡素な目次的記述を採ることだろう
それはいわゆる近代詩の読者向けではなく
彼ら書き手自身にのみ向けられた索引でしかなくなる
そんな索引詩形の模索は行われていいだろうし行われていくべきだろう
いかなる時も大切なのはなにか他人のために書き残すのではなく
生きて躍動し進行し続ける精神の運動のための
本当の役に立つ仮設メモをとることでしかないのだから




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