末期ガンにかかった時
伴侶はいちいち不機嫌になって
世話をしてくれる人たちに
不愉快な対応をするようになった
たまに見舞いに来る人たちには
いつも満面の笑みで対応する
しかし人が帰ると疲れた表情を見せ
あんな人たち来なきゃいいのにと言う
あなたの病気が大変なのはわかるが
まわりの人たちに嫌な態度を取るなよ
そう言うと「病気になっていない
あなたにはわからないのよ」と言う
なにを甘えたことを言ってるんだ
とわたしは厳しく彼女に言って
病魔に奪われた私の少年時代の
六年間ほどの話をしたものだ
みんなが身体を丈夫に作っていく時期
わたしは一切の運動を禁じられ
食餌制限をされて未来のなさというものを
少年ながらに日々生きていた
三島由紀夫が自殺したのを聞いても
健康で立派な身体をした人が
贅沢に切腹なんてやらかして死ぬなんて
なんて甘えてんだろうと思った
伴侶は生涯病気らしい病気をしたこともなく
美貌と人好きする性格とフランス人なのを生かして
ニッポンでみなに愛されチラホラされて
言ってみればずいぶん楽に稼ぎもできた
そんなあなたが人生の終わり頃に
末期ガンになったからといって
自分だけが大変だなんて言うんじゃないよ
ぼくはあなたの六倍の期間も病気だったんだ
子どもの時代の六年間っていうのは
もう永遠みたいに長い長い時間で
完治はしないだろうと言われていたから
走ることも泳ぐことも心の底から諦めていたんだ
こんなふうに言ってよく黙らせたものだが…
彼女が死んでしまってから
厳し過ぎたかなとはちょっと思ったとともに
いや彼女やっぱり甘えていたよと思い直しもした
不治の病が奇跡的に治ったと告げられた時の
よくわからない落胆と重荷は忘れない
六年間もたっぷり遅れを取らされて
これから健常者として追いついていけって?
この頼りない身体ではそんなこと不可能だし
だいたい何ひとつ好きなことはできないと
さんざん諦めさせられてきた後での
輝かしい処刑のようなこの突然の回復宣言!
十五歳になっていたわたしはすぐに
無謀にもサッカー部に入ったりして
メンバーに追いつけないのを自分に見せつけるために
無駄に非効率に苦しく駆けまわり続けた
そんなことを一瞬一瞬思い出しながら
身体が思うようにならないのを怒る彼女に
かつてのぼくの気分をよく味わうがいいなどと
思わないでもなかったのが本当のところ
病気というのはそういうものなんだよ
身体も思うように動かないし数値もなかなか良くならない
心は腐ってくるし魂もぐちゃぐちゃに暗くなっていく
逃げずにそれをよぉく味わって体験し続けるんだよ
言葉でもわたしは彼女にそう言ったかもしれない
言わなかったかもしれないが心ではそう思っていた
ずっと健康で病気知らずで来た人たちは知るがいい
ぼくがどれだけ少年時代に苦しんだかを
どれだけぼくが世界から見放されて
毎日が薬漬けで週に一回は太い血管注射で
腕の静脈を腫れあがらせ時には手首や指の静脈も使い
ストレスや温度変化ですぐに腫れあがる全身
とりわけお岩さんのように腫れあがってしまう
顔や首はひどくて唇などはソーセージのように膨れ上がって
小中学校もそのたびに早退して顔を隠しながら
なるべく人に会わない裏道を選び選び帰った六年間
病状が軽くなることはあっても完治はないはずだったのが
どうしてすっかり治って長く生き延びて来れたものか
あれは前世のカルマだったのかそろそろ再発するのか
それとも今は別人になっているわたしなのか
そんなことを考え出せばなにもかもわからなくなるが
その後も運命のひどい翻弄のなかで吹き飛ばされ続けて
何度も駄目になりかけながらギリギリのところで生き延び
まわりの人たちの幸福や不幸や悲惨や崩壊や死を見続けてきた
誰にも大事にされず認めらず愛されたこともないわたしは
たしかに人間と呼ばれるほどの心も魂も持たなかったかもしれない が
それでも少年時代の重病が治った後少しは人間を
経験したかもしれないよね、どう見えるかな、エレーヌ?
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