2016年9月14日水曜日

(私は、私よ、若返った私、おまえに会いにまた此処へ来るから



過ぎ去った時間は一連の一続きの流れのようなものではなく
ほぼ無限といえそうな宇宙空間のあちこちにまき散らされ
断片的にそこ此処にこびりつく

それらはおのおの勝手な運動性を持って
まるで自由で我儘であるかのように動き続け
あるいは
動かず休止したままで
しかし
突然自分の意思によるかのように
こちらの現在意識に向かって突入してきて侵入したり
すぐに意識を突きぬけて出ていってしまったり
いつまでも意識のどこかに居座ったり
意識全体に霧のように
または拡散と浸透のはやい色素のように
行きわたってしまったりする

そんなうちのひとつが
つい先刻も
意識の中に舞い戻って来たが、いつの頃のことだろう
私は深く老いていて
老いていながら
若い若い妻を持った時の記憶だった
現エクリチュールの記録者としての私はもちろん
いま21世紀日本語で書いているのだが
振り(降り)戻ってきたその記憶の中の私は
違う言語で生活をしており
21世紀の日本人の思考も感情も慣習も持ってはいない
とはいえ共通するところはあるもので
その共通するところを通して私ならぬ私を私は
私であるかのように(昔の私であるかのように)感得するのだが…
逆に言えば
共通するところしか
いまの21世紀言語中の私は
そうでない私を
さびしくも
悲しくも
掬い取れないことになるわけだろうが…

バレーボールのようなスポーツだけに打ち込んできた若い娘と
どうして深く深く老いた私が結婚したのだか
そんな理由はまったくわからず
わかりようもなく
生活はとにかく進んで行っていた(そう、つねに、生活は、
進む、進む、進む、ただ進み、理由もわからず、
よく考えてみれば、どうしてそのような仕儀に立ち至ったのかも、
どうして周囲のあらゆるモノや人々や事象の配置が
できあがったのかもわからずに)
娘は背が高く
髪は顎のあたりまででカットされていて
若者みなが持っているごく普通の清潔な若い肌が
なんら特別でもないのに私にはお気に入りなのだった

ところが娘は、妻は、
辛がって
泣いていた
こちらの話すことにいつもたくさんの苦みや
皮肉や
暗さや
絶望が混じり入っていて
それが苦しくて聞いていられない
どうしてそれらなしにあなたは話すことができないの?
どうしてそれらなしにあなたは考えることができないの?
そう言って
いましがたも膝を抱えて
ひとしきり泣き続けた後なのだった

その昔のその頃
若者の人気グループが明るく楽しいポップスを流行らせていて
ただ明るく楽しいだけでなく
背後には私のように深く深く老いたプロデューサーがいたものだから)
なかなか含蓄もあるよい歌詞も作っていたが
あんなふうに語ったり考えてもらったりしたいのに
あなたから出る言葉は暗過ぎるし苦過ぎる
そんなふうに言うのだった

彼らの歌をいつも聞いて
鼻唄でもして
暮らせばいいじゃないか
そんなに
彼らがお気に入りなら
そう言うと
その言い方が厭味だし暗いし意地悪いのよ
彼らのようにそれでは語ろう
彼らのようにそれでは考えよう
なんでそういうふうに素直に反応してくれないの?
うちでは私とあなただけ
私とあなたの間では私とあなただけ
あのグループなんかが私たちの間にいるわけじゃないのだから
あなたが彼らのように語らなければならないの
あなたが彼らのように考えなければならないの

それじゃあ
ぼくはまるでポップスを流し続けるラジオみたいなものだね
ぼくにラジオになれっていうのかい?
きみのお気に入りの言葉や口調や抑揚を流し続けるラジオ?
そう聞くと
妻はまたさめざめと泣き出して
これはまたひとしきり
小一時間ぐらい続きそうだなと思って
窓から見える
夜の街灯のちょっと黄色みがかった温かさに
自分ひとりだけ
うっとりとなって

(…娘の祖母の田舎を訪ねた時
(私はひとりで散策に出て
(慣れない田舎道を彷徨ったが
(その時
(ある林の傍らの道をむこうのほうから
(黒い服を着て黒い厚手のショールを顔に巻いた老婆が
(深く深く深過ぎる老いを老い切った老婆が
(やってくるのが見え
(だんだん近づいてくるのを私は見続け
(やがて私の脇を通過し
(そうしてまた別のほうへと遠ざかって行くのを
(見続けていた
(そうしてふと気づくと
(私は
(すっかり若者になっている自分を見出した
(若者になった私を
(私はその道に置き去りにして
(…いや、私は若者になった私にそれなりの丁寧さで頼んだのだ
(しばらくかもしれない、ひょっとしたら長くなるかもしれない、
(ここに居て待っていてくれ
(私は妻になった娘との時間をもう少し満たさなければならない
(それが終わったら
(私は、私よ、若返った私、おまえに会いにまた此処へ来るから
(待っていておくれ…

この娘はまだ若いからな
若過ぎるからな
魅力といっては若いだけで
この若さがいずれ消えていったら
後はなにひとつ
魅力は残らないかもしれないな
その頃はまた
魅力のなさがこの娘の
魅力になるかもしれないな…
などと思い

…しかし
とにかくも人はいずれ
どこかの時点で死ぬ
それでいいのだし
それが不幸なことでも
残念なことでもなく
ただそれだけのことなのだ

などと
思いながら
そろそろこの時間から抜けだそうかな
この娘はここに
そのまま
すっかり置いたままにして

こちらに戻って来てしまった
意識の中の娘の残滓も時間全体の雰囲気も
すっかり拭い去って
記憶のひとつにレッテル付けしてしまい
いま
ふたたびこの21世紀の日本語の流れの中に舞い戻って来ている

この日本語の流れからも
いま
離脱する

(私は、私よ、若返った私、おまえに会いにまた此処へ来るから
(待っていておくれ…

(待っていておくれ…



(私は、私よ、若返った私、おまえに会いにまた此処へ来るから




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