優れたとか強いとか、そういう言葉に取り憑かれたのです。
餓鬼道に落ちた者が、いつも飢えに苦しんでいるように、
あなた達は、食物よりもっと不確かな実体の無い物に
取り憑かれ、いつも飢えて苦しんでいるんですよ。
篠田節子『聖域』
その人たちのものを見ると
言葉づかいの軽みや
才気煥発さの足りなさから
あきらかに
詩人では
なかったけれど
本を出したがっていたし
詩人になりたがっていたし
ということは
詩人という言葉に
自分のアイデンティティを充填したがっていた
ということで
つまりは
言葉とイメージに
誑かされてしまったという
だけのことなのだが
実際
その人たちは
次々と本を出した
売ろうとして出版社がいろいろ意見して出すのとは違って
自費出版で
次々と
自分だけの価値観で
だれの介入も許さずに
書くのは
いくら書いたってかまわないし
いくらでも
次々
厖大に書くのは
書きたい衝動を持つ者たちの
最低限の存在証明
けれど
本にするっていうのは
違う
本にしたら
たちまち
売れ行きを気にする回路に
巻き込まれる
「売れなくったって
「ぜんぜんかまわないんだ
「金儲けで駄作を量産する流行作家とは
「こちとら
「まったく違うんだからな
なんて
言いながら
自費出版なのに
出した傍から
あちこちの集まりに持って行って
ちこちこ
ケチな売りさばきをしていた人たちを
たくさん見てきた
そのたび
がっかりさせられた
詩人
ってのは
そういうんじゃないと
信じてたから
せっかく
名誉の
自費出版をしたんなら
売ろうとなんて
するなよ
郵送代まで
しっかり自分で出し切って
ぜんぶ
無料で送りつけろよ
商品になんて
するなよ
思い出すのは
通った小学校の
最後は校長先生になった
先生のひとりの句集
うまいどころか
下手くそで
それでも60年間も
俳句を作り続けてきて
雑誌や新聞にも投稿してみたり
町報の俳句欄にも
投稿してみたけれど
ただの一度も
選ばれもしなければ
引っかかりもしなかった
それが
80歳をこえて
若い頃からの作品から
選びに選んで
300句程度を
白のきれいな造本でまとめて
所在のわかるかぎりの
教え子たちひとりひとりに
送り着けてきてくれた
ぱらぱら捲りながら
ぼくたちは思ったものだ
先生
こんな下手なのを
わざわざ本になんかしちゃってさ
病膏肓に入るってやつか
酔狂もただならぬ
域に達しちゃった感じ
ところが
もう少しちゃんと
目を通し始めてみると
どの句も
毎年毎年の
教えた生徒たちや
交わった先生たちや
父兄たち
学校のあれこれ
珍事や
困ったことの数々
入学式や
卒業式の涙や
合唱や
校庭で舞いあがった埃の
大変だったことなど
そんなこんなで
いっぱいで
しかも各ページのわきには
ご大層に
ご丁寧に
何年何月何日と
作句の日付まで小さく印刷してあって
おかげで
ぼくらは自分が何学年だったか
記憶の中の
あれはこの頃
それはあの頃と
先生の句と照らし合わせながら
情景を蘇らせることができる
しくみになっていた
まったく
いつまで経っても
下手くそな句だよなぁ
と思いながら
ぼくらの生徒時代の
すべてが
先生によって
見つめられていて
毎日のように
一句一句に
反映されていたことに
いつのまにか
失われようのない
楽園のように
句集と
ぼくらの間の宙に
温かく浮かんでいるのが
感じられた
春風や黒板消しが肩に落つ
悪戯っ子駆け去ればザッと散る桜
日付から
これらの句など
ぼくらのクラスのことと
わかる
田上行雄が黒板消しを
ニ重重ねにして
ドアのところに仕掛け
先生の肩に落っことしたのや
峰岸俊が女の子のスカートめくりをして
先生に怒鳴られて
桜並木の下を走って
逃げ去って行ったのや
田上は忙しい会社に入って
重責を担わされて
どうしたわけか自殺してしまい
峰岸は大学生の時に
自動車事故で死に
日付から
これらの句のことが
わかるのは
もう
ぼくひとり
ひょっとして
後は
井上も
井上隆も
わかるかな
でも
井上は
今頃どこで
どうしているか
わからない
先生も
井上にはたしか
送れなかったはず…
ともあれ
小学校の先生の
下手くそな句集こそが
もっとも優れた
詩集だったという
お話
あくまで
ぼくの狭いまわりだけでの
お話だけれども
先生こそが
詩人だったという
お話
あくまで
ぼくの狭いまわりだけでの
お話だけれども
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