2017年1月7日土曜日

私(たち)、もしお望みならば


   
Ecrire c’est aussi ne pas parler.
C’est se taire.
C’est hurler sans bruit.
Margurite Duras, Ecrire, 1993



書くこと。それはしゃべらないということでもある。それは黙るということだ。
マルグルット・デュラス Marguerite Duras

私(たちの)言語配列ものを散見した人々は
気狂いだとか
異常者だとかと
私(たち)をみなすことが多いのらしい

俳句を作るようになってからも、最大の問題は、自分のなかに言いたいことが何もない、ということだった。
長谷川櫂 Kai Hasegawa

そのように
わざと誘導して配列しているのだから
私(たち)からすれば
それも満足のいく効果ではある

自分には肉体がないかのように、世界が存在しないかのように、わたしが存在した場がどこにもないかのように装うこと。
ルネ・デカルト René Descartes

ほゞ古典だけに接して生きている私(たち)は
もしお望みならば
日本古典論だけを論文文体で
数十年語り続けることもできる

現象は過ぎ去る。私は法則を求める。
イジドール・デュカスIsidore Lucien Ducasseロートレアモン伯爵 Le Comte de Lautréamont

西欧近代文学の始祖の専門家でもあるから
その人物の膨大な回想録について
数十年論考を書き継ぐこともできるし
彼の生きた仏革命前後の時代の研究もできる

衣食が足りるとすぐに社会的に自己表現したがる。社会のなかでやはり上へ上へ出ようとするでしょう。それがやっぱりサークル詩ですよ。上へ上へー社会と同じ構図なんだ。それは違うんだな。芸事は物好きのすることですから。
堀川正美 Masami Horikawa

私(たち)が生きざるを得ない今という時代
あらゆる意匠はすでに出尽くして
言語でできることといえば
過去の諸時代の文芸の模倣かアレンジしかない

詩はおのれ自らの縁において自己主張するものです。それは、なおも存続しうるために、自らの「もはやない」から自らの「なおまだ」へ絶えず自らを呼び戻し連れ戻すのです。
パウル・ツェラン Paul Celan

いやそんなことはない、新しい小説があんなに
と口走りそうになる人がいるなら、たぶん
フォークナーもジョイスもプルーストも
クロード・シモンも研究し終えていない人

詩は「別のもの」に赴こうとします。詩は別のものを必要とします。詩は対者を必要とします。詩はこの者をたずねあて、この者に語りかけます。
パウル・ツェラン Paul Celan

まぁ文学研究や文学批評を本気でやってきて
いない人々は一言も口を挟むではない
現代物理学についてなら誰もが口を挟まないが
現代文学については人はわかったつもりになる

美は衆人の目を避ける。打ち捨てられ、忘れられた場所を求める。そこでしか、その姿と、気品と、本質を再現する光に出会えないことを知っているためだ。
エズラ・パウンド Ezra Weston Loomis Pound

なまじっか言葉の配列でできているうえ
使用される概念群もイメージ群も実生活から
採取されるから自分たちが参入できると思ってしまう
誰もが生きている宇宙法則を物理学が扱うように

誰ひとり、いまでは芸術それ自体を問題としていない。ブルジョワの中に、私たちはどうしようもなく埋没している。20世紀を見たいとは思いません。30世紀には、まったく事情は違っているでしょう…
フロベール Gustave Flaubert1864年書簡、ジュネット夫人宛)

誰もが用いている言語とその回路を文芸は
じつは抽象的な手振りで扱っていてつねに実験中で
そこに一般人のおしゃべりのように参入できると
思ったらとんでもない間違いを犯すことになる

文学っていうのは文化的な富の蓄積に対する批判でなければならない。
 Hidemi Suga

こと言語配列に関してはロートレアモンや
ランボーだのマラルメだのウィリアム・カーロス・
ウィリアムズだのパウンドだのシュールレアリストたちだの
そのあたりから全部を読み飛ばして来なければ

数多くいるできの悪い小説家は答えを書こうとしているんです。ところが、予想もつかない形での問いを出すことが小説家の仕事だっていうのが僕の気持ちなんですね。
保坂和志 Kazusi Hosaka

たゞ字面を追う程度のことさえできはしない
あらゆる領域や分野や業界が勝手に先端を拓いていく中で
言語を扱い言語だけを用いる世界が一般人の手の及ぶ
レベルに停滞していたり入門講座ばかりしているわけがない




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