おばあさんになる人と
おばあさんにならない人と
歳をとっても
スーパーちかくで
膝まであるダウンを着ている
おばさん以上おばあさん未満のおふたり
立ち止って
お話中
ひとりのダウンはベージュみたいな
もっと赤みがかっているみたいな
サーモンピンクみたいな
もうひとりのダウンは薄いお茶色みたいな
灰がかったような
シルバーっぽくもあるような
見ながら
おばあさんまでのグラデーションを
考えさせられる
現代日本語はちゃんとそのグラデーションを捉えているのか
おばさん
おば・さん
おばーさん
おば…さん
おばあさん
おばば
ばさま
おばあさんまで行かないように
ヘンな努力を強いられる世間になってしまっている感じだが
おばあさんでなんでいけないのかと
よく思う
歳をとっていく人たちが
おばーさん
おば…さん
ぐらいで留めておきたがっている
あわよくば
おば・さん
ぐらいで
せつないなァ
さびしいなァ
と
じつは
思う
ちゃんと
おばあさんになってから
しばらくは
腰を曲げて生きて
そうして
亡くなるのが
しあわせではないのか
こういう見方があった
「『老』を単に肉体的なもののみと考えるのはあやまりである。
「『老』は古来『長け(たけ)』たものわざや、
「深く見、深く思う力への敬いの言葉であった。*
もっと
しっかり老いようではないか
と
どこかで宣言したいような気になるが
じぶんに向かって
宣言する他
ない
だろうが
老いよ
老いよ
と
心の中で言葉が鳴り始めた
スーパーちかくで
おば…さんぐらいのおふたりの
膝まであるダウン
そのふた色の違いを見ていて
鳴り始めた
老いよ
老いよ
*馬場あき子『現代短歌に架ける橋』
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