2017年9月1日金曜日

『シルヴィ、から』 3

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩 
 [1982年作]

  
  (第三声)


 …謎。

謎と言ったな。

そんなものはなかった。
 わたしは若かったから、すべてのものを吸収するのに忙しかった。

シルヴィがなにゆえに謎だというのか。
繁みに踏み入り、とある切り株に腰を下してしばらく休み、正常に戻ってきた呼吸を確かめながらあたりを見まわした時、自分のすぐ後ろに真新しい墓標を見出したようなものだ。
その繁み自体がわたしには真新しかった。その中の墓標が繁み以上に、どうして真新しいものに、見出したその一刹那、思えるというのだろう。

わたしは同年代の者たちとともにヨーロッパをまわっていた。
わたしたちはやがて海峡をこえてイギリスに到った。
すべてはそこでの出来事だ。

おまえ、わたしではない声よ、わたしではないにもかかわらず、心の縦長の空間の底の底まで静かに轟き下ることのできる声よ。
おまえは回想する。
おまえにできることといえば、せいぜい、歩みを止めて振り返ることだけだ。
すべてはそこで生じ、すべては終わってしまった。
おまえ、おまえにとってはな。
はじめから終わりまで、すべてがその地で廻り切ってしまった。
それはそれ、どんな人間の生命も、結局は地球の軸をさんざん廻って擦り切れていくようにな。
おまえはその土地に恋着する。
想いの中でのみそこに立つことができる。
見ろ、おまえの足元には短い青草が生じ、広がり、ゆるい傾斜を土地に与えたと見る間に赤い煉瓦造りの建物に行き当たろうとする。
あるいは遠いところ、声のかわりに風が届くかと見えるあたりにまで草たちは広がり、まばらに太い樹々が伸び、仲間たちはこの広がりの中に散って遊び、楽しみ、静かに悲しむ。

おまえは草の上に腰を下してしまった。

滑る雲たちは白く、やゝ紫がかってもおり、あいかわらず低いところに青空によって抑えつけられている。

此処までは雨も届かぬ、風もまた、―いや、風はある。
その風に、宙に舞ったボールは心もち流される。
それはゆっくり落ちてくる、落ちてくる、落ちてくるのにあわせて、目を落とす、頭を下げる、見上げたばかりの顔を下げる、下げていく、下げてしまおうとするこの間に、あゝ、すべては忘れられてしまう、もう雨もなく、変わってしまった、完全に、腰を下してもしまった、脚はもう、これ以上、痺れもしない。暴風は去り、取り残された微風が草を弾くばかりだ。

指で草の隙の土をほじったり、また跳ね上がったボールを見上げたり、首をまわして脛骨の音を耳の中に響かせたりしながら、芝生の上に作られたにわか拵えのバレーボールコートのわきに腰を下して、自分のチームの番が来るのを待っている。
夏にもかかわらず、肌寒い風が弱く吹き続ける中で、隣りに座った友人と話を交しながら、目の前で行われている他のチームの調子はずれの試合を見ている。

サッカーは見事なものだが、バレーボールは得意ではないというのが、この国の青年たちに対する友人の結論だった。
これにはわたしも同意し、この結論を得たところで話が途切れる。
しばらくして、空を見上げて目を瞑っていたわたしに、彼が小声で言う。

ほら、ぼくの隣りにいるのが例の娘だよ、この国の隣り、あのフランスの娘。
フランス人?
うん、三人だけフランスから女の子が来ているんだよ。そのうちのひとりなんだ。さっきから時々見ているんだけど、ずいぶん引き立つっていう感じだな。話しかけてみろよ。

その娘のほうを一瞥して、わたしは、視線をすぐに友人のほうに戻した。
隣りといっても、友人からいくらか離れたところに娘はいて、しかも、長い、やゝ色褪せてもいるかと見える金髪に隠れた横顔だけがわずかに見えたにすぎないこともあって、印象はごく曖昧なものだったが、その曖昧さで十分こと足りるほどの興味しかわたしには湧かなかった。

わたしは全くの少年だった。陽の下に黄金に近い色で映える自分の肌とおとがいの滑り、見開いた自分の目の眦だけを好んでいた。

彼の勧めを拒み、片方の目を細めて口元を微笑みのように引き締めながら、軽く首を振った。 

君こそ、話してみろよ。ぼくはいいから。
じゃあ、いっしょに来てくれよ。

そして、娘のかたわらに移ると、彼は話し始める。
わたしは腕で両足を抱え、彼の横から首を前に傾けて、その娘のほうを覗き込む。

その刹那、娘は彼の言葉に注意を集めながらもわたしに目を向け、まなざしが合う。見知らぬ異境の者どうしが見つめあう。まなざしはさぐりあい、交わりあう。

――逸らしたのは、わたしのほうだ。

意識もせずに、知らぬ間に、空の雲の一片の薄い紫へと視線は解かれ、その雲は、空の果ての一方へとやがて移り、これから日の入りの暗闇が一日の終わりに染み上がろうとする頃、夜よりも心を暗くするあの日没の闇がそろそろ木立の隙に頭をもたげ始める頃、宿舎に着替えのために戻る道すがら、娘の名をわたしに告げるとともに、それにしても綺麗じゃないか、と友は言う。

すでに暗くなった足元を見つめて歩きながら、わたしはそれに頷いたが、娘の瞳に自分の瞳をあわせた時に負ったらしい何ものかの位置を、背中の上で少しずらしでもするかのように、
「でも、“シルヴィ”なんて、どことなく金属的な響きのする名前だね」
と洩らした。
 こういう感想をわざわざ口にしたことに気恥ずかしくなって、わたしは歌うように大きく空を仰いだ。




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