2017年9月4日月曜日

『シルヴィ、から』 6

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第六声) 1 
 

「あの時も、わたしは期待していた」………

しかし、その期待は、たとえばそれまでに訪れた他の国々の街や都、パリやローマやフィレンツェなどに対する期待とは全く異なっているに違いなかった。

合宿所として使われるこの田舎の学校は、一見、いかにも興味の対象とはなり難かった。
わたしの国では想像もつかないほどの広大さとはいえ、結局はただの野原にすぎないと言えないこともない緑のグラウンドや、真ん中がハンモックのように落ち窪んだベッドしかないこの校舎に、一体、どういう面白味を見出し得るというのだろう。
わたしは此処に来る前に、ともかくもたくさんの街をまわってきたのではなかったか。
ただの観光で駆けまわって来たくせに、と言われるだろうか。
いかにもその通りだが、わたしはいつも、自分の若さを、いや、むしろ幼さを信じて駆けまわってきた。ほとんど大人として扱われ、自分でもそう装うように努めはしながらも、わたしは結局、16歳の少年にすぎなかった。大急ぎで駆けまわるにも、わたしは少年の感性で駆けまわった。この年頃は、ごく些細な事柄から必ず思いもよらないものを引き出す。一時間でも二時間でも見知らぬ街を歩きまわれば、少年にはその街というものが感覚的に理解し尽くされる。いかにも単純で陽気なヒヨコの団体の一員のように騒々しく街から街へと移りながら、その実、わたしたちは、一時の休みもなく未知の世界を吸収し続けていたのだった。
そういうわたしが、どういう期待をこの片田舎に抱き得ただろう。ーーいや、それでも、わたしは確かに期待していた。どういう時でも期待せざるを得ないのが若いわたしの性分だった。
この期待は判然とはしていなかった。後のなりゆきをすべて知っているつもりの今のわたしとしては、そういうぼんやりした期待を一種の予感のようなものだと説明したくもなるが、それではこじつけも過ぎるというものだろう。

いずれにせよ、その日は、予感もなにも意識に入り込む余地はなかった。六時半に夕食があると知らされて、わたしたちは大いに急ぐ必要があったのだ。
バスの中での倦怠のためにいささかしどけなくなっていた身なりを、それまでに整えねばならなかった。わたしたちに割り当てられた木造の白塗りの建物は、一階から二階まで狭い階段を通じてばたばたと喧騒を極めた。とにかく、はじめての日なのだから、あまり馴れ馴れしい恰好はふさわしくないと皆が思っていた。夕食でもあることだから、旅行中の制服ともなっている青いブレザーを着て、絶対にネクタイを着用して、まかり間違ってもジーンズなどには履き替えないように、というのが意見の大勢だったし、引率の教員の指示でもあった。何人かがごく消極的なかたちでそれに逆らった。わたしは上着もネクタイもなしで食堂に駆け込んだ。そういうわたしでさえも、結局は、ちゃんと折り目の入ったズボンにワイシャツという、いくらか中途半端な格好で、Tシャツとジーンズのイギリス人たちの中に混じって行くことになったのだった。
食事はセルフサービスで、わたしたちは配膳台の前に皿を持って並んだ。わたしたちはすでに、この国の青年たちのうちに交じり入っていた。外国の街を歩きまわるのとは異なる、もっと親密な関わりあいを余儀なくされるこの状況のために、皆、多かれ少なかれ心の状態の変化を感じ、どうにかそういう自分の心の動きを把握し、調整しようとしていた。すみやかにこの環境に溶け込む必要があった。
この必要に対する反応は、わたしにあっては、ほとんど無意識な演技として表われた。すぐ後ろに並んだイギリス人青年にわたしは皿を取ってやった。礼を言って受けとると、彼は微笑んだ。わたしも微笑みを返したが、内心、自分の行為が妥当なことだったか疑った。
彼の隣りに座って、わたしはこの地でのはじめての夕食をとった。わたしたちふたりは時々見つめあって微笑しあうだけで、なにひとつ言葉を交じわすことはなかった。青年は亜麻色の長髪で、日本人にはあり得ないようなその甘いやわらかな美しい顔立ちを見ていると、翻訳小説の挿絵でも見ているようだった。いざとなると、予想以上に自分の語学力が心許ないとわかったが、それでも、来た早々としては仕方もないかと思った。
夕食が終わると、チャペルでの礼拝がそれに続くのが連日を通しての常だったが、この最初の日については、食後の礼拝の記憶はすこぶる薄い。
わたしの記憶は、八時頃から行われたダンスパーティーやゲームへと飛ぶ。以降、毎晩行われることになったそれは、ハウスパーティーと呼ばれていた。
この地では八時頃が日没だったが、その頃になると皆が大きな集会室に集まった。
突然、音楽が鳴り出す。準備体操のようなダンスが一曲踊られる。人数が多いため、前にいる人を蹴飛ばしそうになる活発な踊りだが、それが済むと、今度はいよいよ、わたしたちも知っているようなフォークダンスふうの踊りが始まる
もっとも、日本ではあり得ないほど思い入れたっぷりの曲と踊りっぷりで、日本人には少し気恥ずかしくなるような雰囲気だった。そのためか、この最初の晩、わたしたちはずいぶん気遅れしてしまい、曲にあった踊り方などできなかった。
ただただ、ダンスに次ぐダンス、またダンス、合唱にジュースに夜の礼拝…という、目の回るような連続にすぎなかった。
しかし、日が経っていくにつれ、曲の一曲一曲が、踊りのひとつひとつが、各自の心に次第に深い刻印を残していくことになったのだった。

  (続く)




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