複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
[1982年作]
(第十六声) 2
(承前)
「シルヴィ」とおまえは言う。
そうか、それが娘の名か……
まずいぞ、こりゃあ。
まずい、まずい、いいこたぁねえぞ。
おまえは坂に差し掛かってんだ。しかも下り坂だ。
娘は顔を上げる。
おや、微笑んだな?おまえに。
……いいか、考えてもみろ。自分に声を掛けた者に、 取り立てて嫌な顔をする必要もねえ、というだけのこった。 いろんな意味が微笑みにはあるんだからな。おまえ、 正しく意味を取りたければ、せいぜい経験を積むがいいんだが、… …
「なにを読んでいるの? ……小説?」
ーーふん、おまえばかりが言葉を吐く。
大事にしろよ、言葉たちを。
現実がおまえにつれなくした時に、 言葉だけがおまえを慰めてくれるんだ。 せいぜい言葉たちに良い糧を与えて手なずけておくことだ。
忘れるな。この世のすべては言葉。少なくとも、 人間の世の中という奴の土台は、ただ言葉だけ。
他にはなにもねえんだよ。なにもねえのに、 すべてがあると思い込むのが人間たちの可愛いところ。
社会がおまえに媚を使ってくれるうちは、 人間たちのその盲信を認めておいてやるがいい。 社会がつれなくしたならば、すべては無いと知らせてやれ、 嫌というほど徹底的に。
いいか、在るのは言葉、言葉だけだ。 せいぜい可愛がっておくんだな。
おや、娘は頷いたな。
ならば、娘の読んでいるのは小説というわけだ。
しかし、頷いただけだな。
もうおまえを見向きもしない。微笑みも消えた。
おまえはなにをしているんだ?
雲を見上げているのか?
雲を見るのに、娘の傍らに来て座る必要のあるものか。
おまえは期待していた。
娘がもっと打ち解けてくれるもの、と思っていたらしいな。
馬鹿め、昨日だか一昨日だかに、おまえは騙されたな。
微笑みや眼差しの安売りに引っかかったというわけだ。
安心しろ、この娘、 特別におまえを憎んでいるようでもないからな。
人間の関係など、それだけで十分だ。
わざわざ的を絞られて、 煮え滾った油かなにかのように憎悪を注がれるのでないならば、 それはもう、十二分にも幸福というもの。
ーーおや、娘が立ち上がった。
「さようなら。ちょっと用事があるの」。
なんだ?
その微笑みは?
いま、おまえが娘の言葉のお礼に浮かべたそれ、その微笑みは?
もちろん、これだけ言葉を投げてもらえば、上出来というものだ。 大切な言葉をお恵み下さったんだからな。 感謝しなければならねえさ。おまえの中で、そのうち、 落胆と悔恨という、 しぶとくも興味深い人間学的研究の対象とさえなり得る高等な草が 、逞しくこの言葉から生い立つだろうからな。
なんであろうと多くを持っていたほうがいい。喜びであろうと、 悲しみであろうと、ーーいやいや、 そんなこそばゆいものには俺さまの心、 もう長いこと付き合いが絶えちまってるが、そうでなくとも、 あるいは臭え淫らな欲望とか、 乞食の涎のように糸を引く心の底に溜まった黒い泥のようなもので あろうとも、まあ、いっぱいあるに越したこたあねえってことよ。
娘は行ってしまった。
嘆くな。
だいたい、なにが欲しかったのだ?
心か肉か、それとも、他の珍味か?
肉ならここにあるぞ、俺のこの足下。
ここに、薄ものの浅ましい衣をつけた肉が転がっている。
この肉の野郎、髪に色なぞ付けやがって、 それを振りしだいて俺の脚にしがみつきやがる。
一体、これはどういうことだ?
俺はなにをやっているんだ?
夜の沈んだ街の中、この湿った路地の上で、 黒い生き物のように家々が並び、すぐそこに突き出ている灯は、 風かなにかに揺らめいている。
まるで息でもしているかのようだ。
この女の動きはこんなにも激しいのに、 ここから生まれるのは個体のような静寂だ、それに加えて、 女の体から立ち上るこの靄。
……俺はどうやら酔っていたようだな。
突っ立ったまゝ、夢を見ていたかのような……
どこかで見たような娘の夢?
一体、誰だろう?
俺にとって一体なにに当たる娘だったんだろう?
ともかくも、しばらくの間、 なにやらずいぶんと下卑た言葉で語り続けていたようだ。 俺の言葉ではない何者かの言葉、だが、 ひどく滑りのいい言葉だったな。
夢だったのだろうな、やはり。
夢の中で、何者かが語ったのだろうな。
……それともあれが俺の本当の声?本当の言葉なのか?
とするなら、この俺はなんだ?
この言葉たちはなんだ?
さっきのものに比べて急速にこの言葉たちは生命力を失っていくよ うだが、戻ろうとしても戻れないこの変貌は、なにによるのだ?
本当の俺の声は、一体、どれなのだ?
俺が俺であるためには、一体、俺はどの俺を装ったらいいのだ?… …
(続く)
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