2017年9月13日水曜日

『シルヴィ、から』 18

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第十三声 アリアを含む)  


 …彼は行ってしまった。
これからわたしはどうやって時間を潰そう。

わたしは彼の泊まっていた宿にいるわけでもなく、彼と同じ場所に居合わせたこともないが、しかし、この前、お互いに声として話を交わしたあの時の、あの確実な時の経過の愉しさと寛ぎを忘れはしない。

 あの時は、たまたま居合わせた見知らぬ若い女性の声も一緒だったが、……

あゝ、とにかく、彼が歩み出した以上、再び彼の足が止まる時までは、もう話すことはできないのだな。

歩んで行ける人が羨ましい。
いまだ破れぬ幻の中にいて、意気盛んな人が羨ましい。
夢幻の中で人は千里を行く。
そしてそれが破れて目が開いた時、物事のあらゆる意味が流れ去る。
ちょうど窓のガラスに当たって、虚しくも屋内に侵入することのできない雨滴たちのように流れ落ちて、価値と呼ばれるまやかしの色つやも失われてしまう。
そうして人は問うのだ、生きる価値などどこにある、生きて果てまで行ったとして、一体なにになるのか、と。

 動じることなく、わたしの前に居続けているものは、倦怠だけだ。
そして、退屈、あらゆるものの馬鹿らしさ。

こうして果てまで来た者は、いまだ果てまで来ない者に接することで、わずかばかりの気晴らしをする。

倦怠をあやしつつ、もう幾時間幾年月をのろのろと歩み、無意味といい、馬鹿らしさという、揺るぎようのない地盤の上に、生きることの意味をトランプの城のように構築などしてみる。

…ある女性は、そういうわたしに言った。
それなら、恋でもしてみたら、と。

ああ、恋なら、いつでもしていますよ。
わたしは永い永い恋をしている。
それはいつから始まったのか、ひよっとして、生まれる前のさらに前、前世を終えるそのまた前にでも、その恋はわたしに宿ったのだったか。
恋は苦しみしか与えないとわたしに知らしめたあの恋、恋もまたなにものでもないとわたいに気づかせたあの恋、せめて終わってくれさえしていたら、古い宝石のように愛撫しながら眺めることもできように…
あゝ、恋か、恋ならしている。
それがどうした?
これも、わたしの人生のようにぐずぐずといまだに続き、ときおり火の弾けでもするように息を吹く。
この往生際の悪い恋とも、わたしの生命とのように、退屈な交際を続けていかなければならないというわけか。
地面に落ちるようでなかなか落ちないシャボン玉、終わりそうで終わらない訓話、なかなか姿を見せないがために、人をふたたび眠りに落とす、皺の寄った赤い黄身のような朝の太陽、終わりのないわたしの詩編、閉じられていない丸い宝石…
それはどこから始まったのか。
どういうことから生まれ出たのだったか…

 いやいや、いずれ、あらゆる物事と同じように、なんということのない、いつもと変わらぬ日のある時間、街角か、それとも往来か、建物の際か階段の途中、買い物の帰りか、散策の半ばにでも、なにげなく始まったに違いない。

この発端を思い出すつもりか?
それは、この道をふたたび続けろということだ。
終わっていないからには、終わりに到ろうとしなければならない。

しかし、わたしは動くまい。
終わりへと向かったところでなにになるというのか。
行きたい者は行くがいい、宿を出たあの男のように、現実を幻とも気づかず踏みしめようとする青二才たちのように。
そうすれば、その者の求める幻も、その者の後を追って宿を出るだろう。

……そろそろ朝が静かに滲み上がってきたようだ。
力無いさざ波の打ち寄せるように、ひたひたと音がするようだ。

夢を見続ける者に幸福があるように。
夢をふとしたことから脱ぎ捨ててしまった者、――わたしは、もう二度と、終わりを求めて道に戻ることはない。
わたしは完結する。
わたしは未完の完結を結ぶ。




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