2017年9月13日水曜日

『シルヴィ、から』 19

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第十四声)  


 それではわたしが代わりに行こう。わたしの物語のはじまりを語ろう。
 
 球技の最中、わたしは球を追って転んだ。左の肱を擦り剥いた。
試合が一段落したところで、薬を塗るためにわたしは宿舎へと向かった。

 その途中の道の脇には、女子の宿泊にあてられた建物が、道より半身ほど高くせり上げられた大きなテラスの上に建っており、そのテラスから道へ下りる数段ほどの階段にふたりの娘がいて、階段の脇に造られた装飾的な柱の上に紙を置いてなにかを書いていた。
ひとりは階段の最下段に立ってその柱に向かっており、もうひとりは、柱の平らな頭の端に腰かけて、体を軽く曲げ、紙に向かっていた。
長い金髪が垂れて、顔を隠していた。

 シルヴィだった。
 昨日まなざしを交わしただけだというのに、わたしに向けられた彼女の目はずいぶん打ち解けているように思えた。
 立ち止ったわたしに、シルヴィは微笑みで応じた。
一刹那細められた彼女の穏やかな輝きを帯びた玉のような目から、やわらかな心のありようがこぼれ落ちるようだった。
 風が吹いて、海辺の岩の上に腰を下して水平線近くを望んでいる時のように、彼女の黄金の軟泥のような髪のかたまりが宙に解けた。
 わたしは肘の傷を無言で示した。
あゝ、と声を上げて顔を顰めながらも、シルヴィは親しみ深く微笑んでいた。

 いったいどうしたというのだろう、とわたしは思った。
 昨日はじめて会ったばかりだというのに、それも、目を合わせただけというのに、いったいなにが、わたしたちをこうも馴染ませたのだろう。
まるで、互いに深く知りあった知己とひさしぶりに出会ったかのように、なぜ、これほどシルヴィはわたしをやさしく迎え入れてくれるのだろう。

 手当てを終えて戻ってくると、シルヴィともうひとりの娘のまわりに三四人の娘たちが集まっていた。
 なにを話しているのか、彼女たちの言葉はわたしにはわからなかった。
 まったくわからないわけではなかったが、話の内容がわたしに理解されるには、しばしの間が必要だった。

 シルヴィがようやくものを書き終えたところで、わたしが、
それは手紙なの?
と聞くと、
そう、
と彼女は答えた。
娘のひとりが、
誰に出すの?
と尋ねると、
母に。

へえ、どこに住んでるの、あなた?
フランスのどこから来たの?

アルザス。

あゝ、アルザスね、知ってるわ。
小説があったでしょう。ドーデっていう人の。

それなら、わたしも知ってる。
『最後の授業』っていうのでしょ。

ぼくも読みましたよ。
日本では、学校で使う教科書に出ているんです。

手紙をしまうと、シルヴィは、傍に置いてあった仏英辞典の白紙の見返しを開いて、わたしに手渡した。
ここにサインをして、と言った。

この国の字で書くの?
それともぼくの国の字で?

そう聞くと、少し微笑みを絞り出すようなぐあいにして、
両方の字で書いて、
と言った。

シルヴィも、さっきからシルヴィといっしょに此処にいる娘たち皆も、わたしの書く一文字一文字に見入った。
書き終えると、ずいぶん大きな字で書いてしまったことに気づいた。
辞書の表紙の題字ほどはあり、まるで所有者として署名したかのようだった。

大き過ぎたかな、

と彼女の目を覗くと、そんなことはないと言うので、ほっとした。

彼女はその後、そこにいた娘たちに次々辞書をまわして、サインを頼んだ。
わたしのサインの下に皆のサインが並んでいく間、シルヴィもわたしも娘たちも、ペンを持つ者のほうに注目していたが、時々わたしは顔を上げて、目の前に、夢でも幻でもなく、本当に息がかかるほど近く、目の前にいるシルヴィを見つめるのだった。

寒い朝の冷ややかな湿り気に包まれた曇りガラスを思わせる白い肌、しかし、むろんガラスの硬い拒みようではなく、けっして倦怠を養うような類の白でもない肌が、髪の生え際から額を下って、高く細い鼻の峰に一時わだかまり、その両脇に滑ると見るや、頬に淡い紅を浮かべ、長い頤の滑りを楽しんで、首へ、胸へと降りていく。
口紅の塗られていない引き締められた裸の唇が、ときおりその皺の隙々から水を滴らすようにほころび、光にコーヒーを透かしたような色の瞳を包む目は、つねに大きく見開かれていて、そのまなざしで若い陽光のようにたびたびわたしの瞳を射るのだった。
目の前の人の顔を見つめる気まずさも全く忘れて、彫像をでも見るかのように、あるいはまた、女性のかたちをとってほんの一時現われたわたしの運命を見つめでもするかのように、わたしはシルヴィのこの顔を、飽くことなく、いや、それどころか、生の至高の恍惚そのものの一時一時の時間が堆積していくことに胸を高鳴らせながら、見つめ続けた。

この異国の娘の顔を見ながらも、顔を通してその向こうに見える、どこか遠いところ、鈍く透き通った球の中に凝縮された空のかなたへと、心を放ちでもしているかのようだった。
シルヴィの中には、なにか知れない無限の広がりがあった。
その広がりの中でこそ、わたしは自らの生命を思いのままに完璧に燃え広がらせ、本当のわたしとして生きることができそうだった。




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