2017年9月28日木曜日

『シルヴィ、から』 28

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第十七声) 2

   (承前)

 朝食をみんなが終える頃、責任者の一人から、今日は全員で遠足に出かけるということが発表された。
二台のバスに分乗し、小さな丘の連なる、なだらかな起伏に富んだニューフォレストという野原の広がりと、そこから少し離れた古い町ウィンチェスターとをまわる予定だった。その二つの場所がどのようなところで、また、そこでなにをするのか、なにをするためにそこへ行くのかということの説明も同時になされたかもしれないが、声はわたしのところまではよく届かず、詳しいことは聞き取れなかった。隣りにいた友人に聞いたが、彼にも聞き取れてはいなかった。「いいよ、どうにかなるよ」と彼は言った。
 バスに乗り込むと、わたしは中ほどに座り、まわりの様子を見まわした。
確かにバスは二台で、わたしの国でよく遠足や修学旅行に使われるものと同じ型だった。窓が開かない点が、著しく日本のものと違っていた。運転席のフロントガラスがそのまま伸びてバスを包んでしまったようになっていて、この形状は、バスに酔い易いわたしに絶望的な感情を抱かせた。
しかし、かわりに、このバスは空調が完備されていた。この国に来る前に立ち寄った他の国々、イタリアやスイス、フランスで乗ったバスもこれとほぼ同じものだったのを思い出した。あの時も、やはりバスのこういう形状を見た時には意を決して乗ったものだったが、結局は快く過ごすことができたじゃないか、ーー酔いを避けるために、前もって意識的に自己暗示をかけようとして、わたしは努めてこういう思いを心に深く刻もうとした。
その時、ほぼ時を同じくして、この思いの裏側かどこかから、全く突然に、イタリアの首都近郊の空港で飛行機を降りた時の空の輝きが、ーーはじめて目にしたその国の朝の空の、あの色濃い底知れない海のもののような深い輝きが滲み出てきた。その余りの眩しさに目を絞ると、巨大な老人の像が視野の中へ流れ込み、またすぐに流れ去ってしまうのが見えた。
わたしたちはバスに乗って空港から首都へ、ローマへと向かう道路へ抜けるところで、たった今、その空港のシンボルとなっているレオナルド・ダ・ヴィンチの巨像の傍らを横切ったのだった。
空港を後にして、わたしたちはいよいよ、わたしたちにとっての初めてのヨーロッパであるイタリアの中へ、ローマという古い都の中へ、いや、そのように場所や空間としては捉え切れないわたしたちの一か月の旅行の中、目まぐるしい場所の移動の連続の中、ひとり継続する時間だけがわたしたちをわたしたちとして認めて追いかけてきてくれるような日々の中へと踏み入るところだった。
やがて時間が経ち、予定通りに大陸から海を渡ってイギリスに到り、そこで十日ほど合宿生活をすることになるのだろうと、その時のわたしは思っていた。
今のわたしは当のイギリスにいる。
そして、ここの青年たちとのその合宿も、これまでのわたしの過ごした十数年と同様、いくらかの思い出を残す他はなにをわたしに得させることもなく終わって行くのだろう、と予想している。
おそらく、眩しい空のあの最初のイタリアでの初めての夜には、これからの一か月への期待とともに、その一か月の過ぎた後に抱くであろう感慨をも、はっきりとわたしは心に描き出してしまっていたのではなかったか
「……わたしはヨーロッパを駆けまわってきた。わたしは16歳だった。しかし、それだけだ、わたしはなにひとつ変わらなかった」。
   いずれは、このようなことを誰かに語ることになる程度でこの旅行体験も終わっていくに違いない、と想像していたのではなかったか。
 ……いろいろな国々からのたくさんの旅行者たちに交じり入って、夕刻の時、人々がおのおのの影を、足元や、壁に寄り掛かった背の裏に敷き延べる広場、その広場の階段のある一段に腰を下して、涼んでいるわたし。友人たちの後に付いて、初めての異国の町の夜をいくらかびくびくしながら歩いて行くわたし。トレビの泉で、うしろ向きに硬貨を投げ入れる友に冗談を言いながら、たった今、傍を歩いていった数人のイタリア兵たちが背負っていた自動小銃の筒先を眺めるわたし……
このままにしていれば、さらにたくさんの「わたし」たちがやってくることだろう。その向こうの町からも、あるいは巨大な氷河に反映する夕陽に赤く染まる山の町、山々を越えた向こうの大きな湖の傍らにあるお高くとまった町からも、それともまた、世界中にその名の喧伝されている文化の坩堝たる石の都からさえも
あの朝、小さな女の子と知り合って、その数分後には永遠にこの子と別れてしまったシャモニーでのわたしはどこへ行ったのだろう。
モンパルナスの墓地からの帰り、暮れていく陽の中で、道に迷ってひとりで彷徨った暗い石の都パリでのわたしは、あの後、どうしているだろう。
風の静かに吹き渡る湖の中の島で、ルソーの像の傍らのベンチで、上着の前をぴったり合わせて二時間も座ってぼんやりとしていたわたし、ノートルダム寺院の裏庭で転びそうになって、居あわせた初老のアメリカ人たちに笑われたわたしは、今もあそこにいるのだろうか。
このわたし、このウィンクフィールドの合宿所の門のところで、今バスに乗り込んだこのわたしは、一体誰だろう。
これはあの眩しく深い空を見上げたわたしだろうか。
街から街へとまわったわたしがここに流れ来たのだろうか。
細い体をした日焼けしたわたし、この頼りない少年に本当にすべてが流込んだのだろうか。

 (続く)



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