2017年10月12日木曜日

『シルヴィ、から』 38

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

 (第二十声) 3


いや、忘れてはいけない。
どうしたことだろう。わたしはシルヴィを探しているのではなかったか。
死んだシルヴィ。
本当だろうか、シルヴィが死んだというのは。
劇が最高潮に達したあの瞬間に、その観念はわたしの心を領したのだったが、あれは、単にわたしの思い込みに過ぎなかったのではないか。
わたしは自分の目で見たわけでもなく、誰かから聞いたわけでもなかったではないか。
シルヴィという言葉と、死ぬという言葉とが、どうしてあのような結びつきをしなければならなかったのか。
なにか理由があったのか。その言葉の結びつきに、現実の裏付けらしきものが感じられたのだろうか。わたしを納得させるような理由が存在したのか。わたしを頷かせる確かな幻でも存在したのだろうか。
それはあったのだ。
幻は確かにあったはずだ。
いつものように、幻が、幻こそが、わたしに考えさせ行動させたのだったはずだ。
そもそも、あの公民館の観客たちが幻でないなどと言い得るのだろうか。
劇を見るという新たな架空の劇を、彼らはわたしに対して演じたのではないのか。
ならば、観客とは誰だ?
それはわたしひとりではなかったか?

いまや、わたしは最後の襖を目の前にしていた。
主観的にわたしが目の前の襖をそう見なすだけのことで、客観的な保証はむろんなかった。最後の襖かどうかなど、開けてみなければわかるはずがないのだ。
しかし、いくつもの襖を開け放って屋敷の奥に踏み入ってきたわたしの意識のどこかで、今、完全に満ちるに到ったなにものかがあった。
そのなにものかのこれまでの増量に従って、この屋敷という現実がわたしの前に展開していたかのようだった。
さしあたり、わたしはなんの感慨も持たない。
特別の感情を抱くことなく、この襖に手を掛ける。
想像した通りの情景が、おそらく見出されるだろう。想像したことのある情景、夢や幻として一度はわたしを訪れた光景以外のものを、かつて現実は、わたしに提供し得たことがあっただろうか。
わたしは開く。
現実というものは造作なく開かれる。
そうして、現実はつねに、想像や夢や幻の確かな先験性を証し立てる。

小さな部屋が目の前に現われた。
六畳ほどの薄暗い狭い部屋。
まぶしくさえ感じられない黄色い電球がひとつ、裸のまま部屋の中央にぶら下がっている。
畳の上に仰向けに横たえられているひとりの女。
その横に、喪のための黒い着物を着た女が端座している。
女がこちらを向く。
この女の端正に結い上げられた黒髪を見て、わたしは初めて、横たえられている女の髪が金髪であると知る。
「たった今、……でございました」
喪服の女は、眼差しを、横たえられている女の額のあたりに落としつつ、こう言う。
今、わたしは、この喪服の女との一対一の個人的な接触を持ったことになる。横たえられている女は、今現在のわたしには、もう直接の関係はない。
喪服の女とわたしとの間の避けられぬやりとりのよるべなさに、もうけっして、この絶命した女は干渉して入ることができないだろう。
わたしは膝を折り、その場に座って腿の上に掌を置き、腕を張る。
わたしの前には絶命した女が横たわっている。
その遺体の向こう側に、喪服の女がこちらを向いて座っている。
できるだけ、その女のようにかたちよく座ろうとして、わたしは静かに姿勢を整える。
女の匂い、わたしを捲き込むような女の存在感が部屋に満ちている。
これは、横たえられている女のものではない。喪服の女のものだ。この部屋で、今、主であるのは、この喪服の女なのだ。

わたしは、自分を回復しようとするように、横たえられている女の顔を見つめる。
これは、まぎれもなく、シルヴィだ。
その頬に両手を当てて、わたしはシルヴィの顔を揉むように撫でる。
「それにしても、……」
女がふたたび口を開く。
わたしは心の中でくり返す、『それにしても』?
「暗い部屋でございます」
『暗い部屋』?
……どういう意味で、こんなことを言うのだろう、とわたしは訝る。
確かに暗い部屋だ。それは事実だ。
しかし、この女が、単に事実を言葉で言い表わすためになにかを言っているのではないように思われる。
シルヴィの頬を押さえたまま、わたしは女の顔を見る。
女はわたしの瞳を見つめ、手で軽く目元を隠すと、光が深い水底へと降りていくように、ゆっくりと眼差しを逸らす。
その眼差しは、彼女の端座した膝の傍らに落ちる。
どこか湿った暗い廊下にこの女を押し倒して、抱き締めている光景を、わたしはふと思う。
女の内腿の白さが、白鳥のように薄闇の中に舞ったのを見て、わたしは軽い吐き気を覚える。
わたしにはなんの欲望もない。
女の汗の臭いが、わたしの自由を奪う。
顔のやり場に窮する。
胸の間、鳩尾から腹のやわらかみの中へと、わたしは顔を動かし、戯れに、女の臍に鼻先を埋めなどしてみる。
廊下の向こうからでも、誰かわたしを蹴散らしに来てくれないだろうか、と思う。

女が、突然、目を上げる。
そして、目を細めがちにして、わたしの後ろのほう、開かれた襖の向こうを望む。
その細められた目のまわりに、奥深いところから表面に上ってきた震えがわだかまる。それに合わせて、互いに触れ合う一本一本の睫毛が、まるで産毛のようにやわらかげに見える。
海の遙かなところに目を凝らす少女の眼差しと、産毛そのもののようなあの睫毛を、わたしは思う。少女のやさしさを、この女もまた、じつは持ち続けたかったのかもしれない、と、ふと考える。
この女にやさしくしてやろう、と思い直す。誰もがこんなふうなのだ。誰もが、しかたなく、見栄を張っている。その見栄が人を苛立たせる。
わたしは許そう。悪循環をわたしのところで断つことによって、なにか解決されるものがあるかもしれない。

(第二十声 続く)



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