複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
[1982年作]
(第二十声) 4
喧噪がしだいにわたしの背後に近づいてくる。 女はわたしよりはやくそれに気づいたため、 わたしの背後を見つめたのだった。
多くの人のざわめきが近づいてくる。もう、 すぐそこまで来ている。劇の観客たちがやってきたに違いない。
「だから言ったんだ」
と、最初にこの部屋に入って来た者たちのうちのひとりが言う。
「王女の死ぬ場面は絶対にやっちゃダメだって」
「そうだとも。こうなることはわかりきっていたんだ」
と、他の男が言う。
続いて、いろいろな声が一度に堰を切ったように、 あちこちで語り出す。 シルヴィと女とわたししかいなかったこの部屋が、もう、 ぎりぎりの人数で満ちている。人の数は、なおも増えていく。 この小さな部屋の中に、どうしてこんなに入ることができるのか、 と思うほどの人間がいる。
さらに人々は入ってくる。
喧噪は増す。
彼らはこの部屋で、たった今、人が死んだのだと知っている。 それについて声高に語り合うことが礼儀と思ってでもいるかのよう に、ますます大胆に声を上げる。
突然、誰かが「おい」と叫ぶ。
皆が語り止む。
「どいてやれ、通してやれ」と、口々に声が上がる。
短い黒髪の、がっしりした体躯の男がわたしの傍らに進み出た。
「ご主人ですよ」
喪服の女がわたしの瞳を覗きながら言う。そして、 その男のほうを見上げて、はっきりした声で、
「ごらんのとおりでございます。つい先刻でございました。 お苦しみなることもなく、静かに……」
男は静かに畳に膝を落とす。両手を伸ばして、 シルヴィを抱き上げる。シルヴィの頬に自分の頬を合わせる。
「あゝ、シルヴィ」という呟きが彼の口から洩れる。
その呟きのさまは、この上なく自然に感じられる。 この男がシルヴィの夫であったということが、 疑い得ないことのように思えてくる。
男は、胸にシルヴィを抱いたまま、わたしのほうを向く
「お医者さまですね」
とわたしに聞いてくる。
違う、などと、このわたしの今の立場で言えるだろうか。 かといって、自分を医者と偽るわけにもいかない。 わたしは俯いて、
「わたしが来た時には、もう……」
と、言いかける。男は、 わたしがすべてを言い切ろうとするのを止めるように、
「わかっています。しかたがありません。 どうしようもないことです」
ふと、喪服の女がいないことにわたしは気づく。
今まで彼女がいた場所には、古い大きな鏡台があるばかりだ。 縦に長い楕円の鏡が、古池の水のように、 静かにわたしの姿を返している。
鏡の縁に、ごくわずかだが、緑色のみずみずしい苔が付いている。
そのさまを見て、わたしはなにかを納得できたように思う。
わたしは立ち上がる。
後ろに立っていた人々の間を抜けて、隣りの部屋へと抜ける。
「ありがとうございました」という男の声が、 わたしを追ってくる。
玄関では、女の子がひとり、 乱れたたくさんの靴をきれいに並べているところだった。
靴を履いてから、とりとめのつかない頭を持余し気味に、 わたしはしばらく式台に腰を下したまま女の子を見ていた。
が、ふと思い立って、その子に尋ねた。
「おかあさん、なんていう名前なの?」
女の子はわたしの目を長いこと見つめる。
やがて、女の子の眼差しにある安らぎが現われる。
彼女は答える。
「シルヴィっていうの。今、お父さまが会いに行ったわ」
公民館へ、わたしはふたたび戻っていく。
あの女の子は一体、なんなのだろう。
あの男は誰だ?
シルヴィの子供と夫。
本当だろうか?
しかし、そんなことは本当でもかまわないのだ。
問題は、シルヴィの子供や夫が、一体、 わたしにとってどういう意味を持つことになるのかということだ。
公民館の中には、もう誰もいなかった。
舞台に王女役の衣装が脱ぎ棄てられていた。
「脱ぎ捨てた……」とわたしは呟いた。
と、突然、わたしは理解したように思った。
その通りなのだ。
脱ぎ棄てた、ということなのだ。
シルヴィはひとつの役を終えた。
今、役から下りた。
そして、衣装を脱ぎ捨てたのだ。
彼女には夫も子供もあった。しかし、今それらは、 脱ぎ棄てられたひとつの衣装に過ぎなくなってしまった。
彼女はいまや、現実と比べれば、 ほとんど絶対的に自由と言えるものの中へ踏み込んだのだ。
公民館を出て、わたしは村道を戻る。
ふたたび屋敷の門をゆっくりとくぐり、庭を抜ける。
さっきの女の子が、今度は玄関の外で石蹴りをしていた。
「お嬢ちゃん」
とわたしは、いくらか背をこごめて尋ねる。
「名前はなんていうの?」
「あたし、シセルよ」
と、事もなげに女の子は答える。
この答えが、わたしを、 ちょうどわたしのまわりで廻り出したゆるやかな渦の中に静かにつ き落とす。
「シセル」
とわたしは呟く。
わたしの心が呼応する。
シセル…… なにかが思い出されてくるようだ。
かつて、この響きと親しかったことがあるように思う。
シセル。
シセル。
……そうだ、わたしは思い出す。
シセル。
あれは、たしか、シセルという名だった。……
(第二十声 終わり)
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