2017年10月23日月曜日

『シルヴィ、から』 49

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十三声) 3

  (承前)

 わたしたちの最初のゲームはクロッケーだった。
大きな槌で球を打っていくゲームで、すべての鉄の輪の下に順番に球をくぐらせていくものだった。全部で何回打ったかが記録され、回数の少ない順に優劣がついていく。東・西・南・北の各組の、計八人の選手が集まっていた。ゲームにはひとりずつが出て、四人で行う。
はじめに彼女が出て第二位の成績を収めた。二回目にわたしが出たが、わたしはずいぶんと手間取った。皆が五十から七十回ほど打って終わるところを、わたしは百数回でようやく終えた。間違いなく最下位となった。わたし以外の誰もが、早々にやり終えて、わたしひとりのゲームをずっと見ていた。やっとのことで終わった時には、皆、最後にゴールインした走者にするように、わたしのために拍手してくれた。娘のところへ戻って肩をすくめてみせると、笑いながら、「よく頑張ったわ」と言ってくれた。
 こんな調子で午後は始まったのだった。すべてのゲームがどのように行われたか、どんなゲームで、どういう楽しさがあったか、そういったことについての全てを語る必要はないだろう。むしろ、ことさらに全てを語ろうとすれば、わたしは知らず知らず嘘を語ることになるはずだ。というのも、ひとつひとつのゲームやゲームの最中、あるいはゲームからゲームへと移る間のわたしたちの言動の様々を総合して得られるような印象が、わたしの中には残っていないからだ。残っているのは、分析とも総合とも次元を異にした、ひとつの生物体のような瑞々しいかたまりであり、思い出を時おりふっと浮かばせる漠然とした柔らかい水晶球なのだ
それをわたしは心の中に抱いているに過ぎない。あの時のあのグラウンドにあったあらゆる物、あらゆる人たち、響く声、シャツを抜ける風、止まってはまた流れる雲、球のように弾み、渦を巻き、あるいは飛び散って他の人の心に忍び込む感情の動きなどが、すべてこの球の中に封入されている。大きな飴を口に含むようにして心の中にこの球を含み、その飽きることのない味をわたしは楽しむ。
この飴の中には時どき思いもかけない蜜が入っていて、甘い酒のように舌の上に広がり、口に満ちることもある。たとえば、ゲームがうまくいかない時に見せる娘の困惑した顔。もっとも、彼女はすぐに微笑んでしまうのだが。しかし、その困惑にしても、微笑みにしても、つねに、内輪の人間に対するもののように打ち解けたかたちでわたしに送られるのだった。彼女は始終ゲームに顔を火照らせて、言葉少なだが、快活に時を過ごした。いくつめかのゲームが終わり、そのゲームの審判が言ったなにかの冗談を笑う暇に、皺のできたそのまなじりをわたしに楽しませながら、一言、まるで、一瞬だけどこか別の場所に行って、ふたりだけになりでもしたような調子で、彼女は、
「楽しいわ、とっても」
 と言った。
「ーーぼくもさ」
と、慌ててわたしも言うのだった。そして、
「よし、今度こそ一等になってやる」
などと言って、ふたりで景気づけをするのだった。

 風がすでに一日の終わりを吹き知らせて廻っていた。少しずつ感じられてくる肌寒さが心に滲み入って、物悲しさになり変わるようになってきていた。
太陽が沈むにはまだ時間があるが、しかし、もう五時になろうとしていた。娘とともに満ち足りていたわたしは、その時、ーーゲームをまたひとつ終えて、次に移るその時、ふと空を見上げた。
太陽は雲に隠れていた。暗くはないが、空が確かに明るさを失っているのが見られた。雲が流れて、すぐにもまた太陽が姿を見せるかもしれないが、しかし、今までわたしたちを照らしていたあの明るさは、もう、二度と戻ってはこないように感じられた。五時か、とわたしは心に呟いた。日没はこの地では八時頃だったから、あと三時間ほどは、太陽が出続けているはずだった。
しかし、あと三時間というその思いが、わたしをよりどころのない夕暮れの風のような寂しさに陥らせるのだった。陽が沈んでしまえば、わたしはむしろ、よほど楽になるだろう。だが、あと三時間しか陽は出ていないというこの現在にわたしはいるのだ。あと三時間すれば確実に陽は沈む。ゲームもそれまでには確実に、ーーわたしがいかに不器用に時間をかけようとも終わってしまうことだろう。もう二度とあらゆるものに手が届かなくなるのだ。彼女と手を握りあってグラウンドに出たあの時。いくつめかのゲームを始めるにあたって、審判の説明をふたり並んで聞きながら、審判のほうを見ている彼女のうなじの流れにそっと目を落として、ひそかに溜め息を押し殺したあの時。どれもこれもが、ついさっきの出来事だ。そして、どれひとつ、もう二度とわたしに戻っては来ない。
この午後を十分に楽しんだだろうかと、わたしは自問してみた。十二分に満ち足りて今日を生きただろうか。大きな喜びの前でたじろがなかっただろうか。内気さのために得難い時を逃したりはしなかっただろうか、と。
いやいや、わたしのこの一日はやはり不十分だったな。今日ばかりではなく、このウィンクフィールドにあって、毎日が満たされなかったじゃないか。遠くから草の上を這ってきた風がわたしの足に絡みついて、このように言いはしなかっただろうか。
「本当にそれだけか?ここでの生活においてだけなのか?おまえの辛抱はずいぶんと深かったんじゃないのか?」
ーーそうだ、まったくその通りだ。わたしは、突然、自分の弁護を思い立ったように、いささか、むきになって、焦りに追われつつ風に頷く。その通りだ。わたしはずいぶんと強いられた不毛に耐えてきた。満たされることなく、萎んでは消えていった数えきれないほどの日々の虚しさを、わたしは耐えてきた。本も取り上げられて、病気で寝ている幼い日の午後。教師の目の下で、興味もない数式をいじくっているふりをしなければならなかった進学塾での、あの白みきった時間。中学校の昼下がりの眠い社会科。「ここで待ってなさいね、動くと迷子になっちゃうから」と言われて、忠実な犬のように壁際でじっとしている、デパートでのあの十数分ほどの間。病気のために見学をすることになった体育の毎時間。待ちくたびれて、帰ろうと思う頃になって、ゆっくりとやってくる少女。それでも、「いや、そんなに待たなかったよ」とわたしのほうが言ってしまっていた。そうだ、まったくその通りだ。いつも、わたしはそう言ってきた。ぼくのことは大丈夫ですよ、ぼくは別にそんなに待ったわけじゃありませんよ、ぼくのことなど気にしないでいいんですよ、それよりあなたこそ…… 
誰がこんなことを本気で言うものか。こう言うように育てられ、調教されてきただけのことだ。あらかじめ自分を抑えつけておけば、他人からはそれほど抑え付けられずに済むという隷属的な処世術。そのためにわたしは、日々の充実を犠牲にした。しかたのないことだったろうか。可能性の抑圧、不満足をあやしつけて、満足であるかのように自分に思わせること。そういうことの、終わりのない連続。自分をごまかすことに次第に手慣れていくことを、世間では〈成長〉と呼び、〈大人になる〉というのだった。心の深いところに隠れた声が言うのを、わたしは聞いた。
「いいさ、焦るなよ。俺はちゃんと少しずつ手はずを整えているんだ。俺には確固とした計画がある。いつか、すべてを、消え去った可能性、洩れ落ちて逃げて行った満足のすべてを、ひとつ残らず掻き集めてやるんだ。俺は俺自身になってやる。巨大な竜巻のようにすべてを吸って、大地を睥睨してやる。街を崩し、屋根を裂き、人間たちを地の果てへと叩きつけ、河を飲み、海を吸って、飽くことなく天へと伸びてやる」。
ーーそうだとも。わたしは充足しなければならない。次のゲームに移る今この時、わたしは娘を抱きしめてやるべきではないのか?彼女から充実という果汁を吸いつくすべきではないのか?充実を、ただそれだけを手に入れるために、現代社会ならばどこででもふんだんに手に入る安価なあの万能キー、「愛してる」という、誰ひとりにもわけのわからない呪文で心の最後の扉を開き、宝を洩れなく奪うべきではないのか?
そして、どうするのだ?
その後は?
逃亡するのだ。より高い次の充実を求めて、わたしだけのために、わたしの飢えだけを満たすために道程を続けるのだ。
今こそ、その時ではないか?彼女のうち解けた微笑を、親しげなこの物腰を、今こそ利用すべきなのだ。充実がここにある、彼女のうちにある。すぐに捨て去られるべき充実、次の別の充実への束の間の踏み台になってくれる充実。ただそれだけの価値しかない充実、とはいえ、今摘み取らなければ永遠に失われてしまう、時分の花である充実。それが今、彼女の目を輝かせ、頬を上気させ、うなじを光らせている。

 (第二十三声 続く)



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