複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
[1982年作]
(第二十三声) 2
(承前)
「あなた、なんていう名前なの?」
わたしの顔を見て、娘が訊ねた。
わたしはゆっくりと自分の名を発音した。
彼女は、一度、わたしの発音に合わせて口の中でくり返すと、 次にははっきり声に出して言い、最後を上がり調子にして『 これでいいかしら?』という確認の気持ちを覗かせた。
わたしは頷いた。
本当は、「その通りだよ」とか、「なかなかうまい発音だね」 とか言って、さらに気の利いたセリフを加えようと思ったのだが、 言葉がうまく出てこなかった。しかたなく、わたしは、 眼差しを彼女の瞳に据えたまま、 ちょっとしたしくじりをした後で、 人がよく仲間に送るような微笑みを作った。
彼女も微笑んだ。その頬の上のあたりには、 軽く雀斑が散っており、 笑った顔のまなじりに皺のできたのが見えた。
まなじりにできる皺を見るのが、わたしは好きだった。
それは間もなく微笑とともに消えたが、彼女の眼差しだけは、 わたしの目の中に残った。一刹那、彼女は目を逸らし、すぐに、 ふたたびわたしの目にその眼差しを合わせた。
その瞼の震えと眉の微妙な動き、そして、 全体的にやや上目づかいになった様子に、 それまでの彼女にはなかった恥じらいの現われを見るようだった。
おそらく、わたしは、 生身の人間でない石像かなにかのようにして、 彼女をじっと見つめていたに違いない。 すでに微笑をおさめてしまっていたから、 この時のわたしはひどく生まじめな面持ちをしていたことだろう。 急に自分が大層な大人にでもなったように感じられた。 この一瞬にあって、彼女はわたしに従属しているように思われた。
彼女の頬に赤みが差した。
いい加減、娘を救ってやる必要があった。
「……で、きみはなんていうの?」
しかし、救われる必要があったのは、むしろ、 わたしのほうではなかったか。 この娘とふたりでいるというだけで、 どれだけ内心わたしが取り乱していたかは、たった今、 わたし自身が発した質問の結果によって、すぐに、 おのずと明らかになった。
彼女は自分の名前を言った。
わたしは目を逸らして、歩いている足元に眼差しを落していた。
さっきの彼女のように、 今耳に届いた娘の名をわたしは声に出してくり返した。
その通りよ、と頷く彼女を見て、 わたしは心のうちでその名をもう一度くり返そうとした。
だが、できなかった。
わたしは娘の名を、まるで耳にもしなかったかのように、 すっかり忘れてしまっていたのだ。
彼女は確かにわたしに名を告げ、わたしの声は、 それをはっきりと発音しさえしたにもかかわらず、その間、 わたし自身は、 耳や声と行動をともにしなかったに等しいのだった。
自分の外見が勝手に彼女の名をくり返して確認さえした後で、 今さら、もう一度教えてほしいなどとは言えたものではなかった。 しかたなく、いかにもよく彼女の名を覚えたとでもいうように、 頭を上下に何度もゆっくりと振って、頷いた。
「住所を教えてね」
と、彼女がいくらも間を置かずに言った。
「うん、後で」
近づいてきたゲームの場所を見ながら、わたしは答えた。
その場所には鉄の半分の輪がいくつも芝生に立てられていて、 此処では、パッティングかなにかをやるのだろうと思われた。
「あとで紙に書いてちょうだいね。名前もいっしょにね」
この彼女の言葉が、なにか、 わたしに縋りつくような調子で語られたのを感じて、 わたしは軽く立ち止った。
彼女が一二歩行き過ぎた。
右手が少し引き上げられるのを感じた。
見ると、彼女の左手がわたしの掌を握っているのだった。
彼女の掌もまた、わたしの掌によって握られていた。
わたしは、意識しないまま、 ここまでずっと彼女と手を繋いで歩いてきていたのだった。
わたしは手を離した。
彼女の手は、しかし、今しばらくの間、 わたしの手を離さなかった。
だが、程なく彼女は力を抜いた。
右手はわたしの元に帰ってきた。
腕が胴に添って落ち着いた時になって、 わたしは手を離してしまったことを悔いた。実際、 彼女と手を繋いでいるのに驚いたことの他には、 これという理由もなく、わたしは手を離してしまったのだから。
手を離すのにはそれなりの必要があったのだ、 と彼女に思わせなければならなかった。
左手にノートを携えていたが、 わたしは強いられた用事ででもあるかのように、 それを前に持ってきて、右手で、しかたなくも右手で、 そのページを繰った。そして、白いページを見つけると、 これもまた右手の人差指でそこを彼女に指し示した。
「ここに書くよ。ゲームの合間に書けるだろう」
そう言って、微笑みを添えた。
わたしたちは再び歩き出した。
もう、さっきのように手を握りあうことはしなかったが、 親しさはいっそう深まったように感じられた。
(第二十三声 続く)
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