複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
[1982年作]
(第二十三声) 6
(承前)
やがて、ゲームは終わり、夕食も終わった。
礼拝の時には、例のあの友人、 ーーわたしの眼差しをはじめてシルヴィの眼差しへと導いたあの友 人と一緒だった。
彼はドゥニーズを好いていた。 彼女に日本の硬貨をプレゼントしようとしていた。 わたしは彼にいくらか硬貨を貸した。同伴することを求められた。
ドゥニーズが礼拝堂の中ほどの席に着いたので、 わたしたちもその隣りに腰を下した。
ドゥニーズの向こう隣りにはシルヴィが座っていた。 つねに行動を共にしている親友同士の彼女らなので、 これはごく当然のことだったのだが、 ドゥニーズの向こうにシルヴィがいるというこの現実は、 匂い立つような鮮烈さで、 この時のわたしの感覚の肌に突き刺さってきた。 様々な事柄について未経験過ぎる青少年がよく心の中で経験するよ うに、抽象的に深く思い描いてみたことのある、 遭遇したこともない傷の痛みというものを、ついに、 空想でも夢でもなく、 物質的な動かし得ぬ存在感として投げつけられたかのようだった。 「シルヴィには近づきたくないんだ」 とわたしは彼に小声で言った。
十円玉や五円玉や一円玉を示しながら、 それがイギリスのお金やフランスのお金でいくらに当たるかを、 彼はドゥニーズに説明した。 説明にはやや手こずっているようだった。 彼はそれらの硬貨をドゥニーズの手に(わたしから見えれば、 いくらか無理やりに)握らせようとした。ドゥニーズは、はじめ、 彼の気持ちを解さなかったらしく、 なかなかそれを受けとろうとはしなかったが、それでも、 やがて手にすると、彼に礼を言って、 貰ったばかりの硬貨を隣りのシルヴィに見せた。
「まいったよ。ドゥニーズは分数がわからないんだぜ。 十円が一フランの何分のいくつだって説明しても、 ちんぷんかんぷんなんだもの。フランスって、 数学を学校で教えないんじゃないかな?おかげで、 説明に手こずったよ」
こちらに向き直った彼が言った。 フランスの教育についてはわたしも知らなかったが、それでも、 日本より質の高い教育が行われているといった紹介の文章や、 具体的ないくつかのフランスの教育方法についての記事を読んだこ とがあったので、きっと、 ドゥニーズがたまたま数学嫌いだったのだろう、と思った。
「さっきの君の様子はおかしかったよ。 ドゥニーズがちょっと迷惑そうでもあった」とわたしが言うと、
「そうかなあ。もっといっぱいあげるべきだったかなあ」
と彼が言うので、
「いや、そういうことじゃなくってさ……」
と言ったものの、それ以上は言わなかった。硬貨であれ何であれ、 自分の国のものを、 これといった理由もなく外国人に贈るということが( そうしたいという気持ちはわからないでもないが、それでも) わたしには、なにか奇妙なものに見えたのだった。
彼にしてみれば、もちろん、立派な理由がありはしたのだろう。 彼はドゥニーズを好いていた。理由としては、これで十分だ。 しかし、好きな人に自国の硬貨を贈るなどというのは、 侘しいことに思えないだろうか。 わたしは彼を非難しているのではない。そうではなく、 わたしはただ、彼に他のものを贈ってほしかったのだ。 自国の硬貨などでなく、せめて、 彼自身の硬貨とでも喩え得るものを、 ドゥニーズへの贈り物としてほしかった。
時の流れという考えが、やがて、 後になってわたしたちに四年経ったと告げる頃、 ある春の日にドゥニーズは自ら生命を絶つことになり、 その知らせを彼が知るのはその年の秋も終わる頃になるのだったが 、今現在、この時点では、 もちろん誰ひとりそのようなことを知る者はなく、 予想する者さえ居りはしなかった。ドゥニーズとシルヴィは、 彼が贈った硬貨の数枚を、撫でてみたり、 その表裏の柄に目を凝らしたり、 なにか些細な話題を見出しては小さな声で笑ったりしていた。 彼はといえば、 わたしに話しかけた後でふたたびドゥニーズのほうを向いて彼女た ちの様子に気を配っており、わたしはわたしで、内心、 シルヴィのことを考えながらも、 礼拝堂の中の様々なものに目を移しつつ、 礼拝の始まりを待っていたのだった。
……本当に、わたしは決して彼を非難しているのではない。 彼の気持ちはよくわかっている。 ああいう時の人の心の動きと実際の行動とのずれを、 わたしはよく知っている。だが、わたしは、それでも、 もしあの時、 彼がなにか他のものをドゥニーズに渡してくれていたならば、 と思わざるを得ないのだ。
とにかく、なにか他のもの。なんでもいい、とにかく、 なにか他のもの。いつでもわたしたちは、こうなのだ。 なにか他のものを贈っていたならば、ドゥニーズは、 あらゆるドゥニーズたちは、生命を絶つことなどなく、 いまだにわたしたちとともに居り、 ますます深く通じ合えるようになっていたかもしれなかったのだ。
(第二十三声 続く)
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