2017年10月31日火曜日

『シルヴィ、から』 56

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十四声) 1

 うまくごまかしたようだな。
だが、おまえが実際はどんなに切ない心でベッドに入ったか、わたしにはよくわかっている。
時間が経つのは早いものだな。
夢に慰められることもなく、早くも次の朝が訪れ、この地を去る日がとうとうやってきてしまった。すべては終わり、決定的な出来事はすでにつくり上げられてしまったとおまえは語ったが、声よ、全くその通りだ。なにひとつ派手なかたちでは現われなかったが、愉しみも悲しみもすべて過ぎ去り、おまえたちと違って、わたしはもう、なにもこれといった経験はしないだろうし、時が流れゆくのを身を裂かれる思いで見守るほどの情熱も持たないことだろう。

 朝食と礼拝を終えると、同室の友人たちとともに、わたしはすぐに宿舎に戻って荷物の整理を始めた。
衣類を取りまとめ、ひとつひとつ丁寧に畳んでトランクに収め、さらに、自分なりに細心の注意を払って所持品の確認を終えると、わたしはトランクを閉じ、鍵をかけた。ついで、いくらか念を入れて制服の青いブレザーを身につけ、髪を整え、ティッシュペーパーで簡単に靴の埃を掃った。
そこまで終わってしまうと、わたしには他に、もう、これといった用事がなかったので、ひとたび鍵をかけたトランクをふたたび開き、その中を整理し直して時間を潰した。
同室者の大半は、手早く整えた荷物を持って、早々に部屋を出ていた。出発までの時間を、少しでも長くガールフレンドたちと過ごそうというのだった。
ひとりで宿舎に留まっていても仕方がないので、わたしも出発の三十分前頃には外へ出て、皆が集まっている女子宿舎の前まで荷物を持って行った。

 サイン帳が手から手へ渡ったり、握手をしてまわる人たちが立てる声や、親しくなった人たちが取り交わす会話などで、これまでになくざわめいているところへ来てみると、予想はしていたものの、自分がこの喧噪とはあまりに縁のない人間なのが、痛いほどに感じられた。
しばらく、この喧噪の中に留まっていたが、ひとりだけサインも頼まれなければ、握手も歓談も求められない気まずさに居たたまれなくなって、そこを離れ、場を移した。
 わたしが外へ出た頃には、すでにバスは来ていたようだったが、出発を潔く受け入れる気配は人々の間にはまるでなかった。
予定されていた出発の時間が過ぎた。
十時半をまわった頃、これ以上はもう遅れるわけにはいかないと言われて、ようやく皆、バスに乗り込むことになった。
わたしのように、これといった新しい確かな交流に恵まれなかった者は、それぞれの感慨を心には持ちつつも、言われるまま、すみやかにバスの中に入って腰を下したが、この合宿中になんらかの幸せに恵まれた人たちは、最後の抱擁やキスに忙しかった。
わたしは、ただただ時間がはやく経ってくれるのを望みながら、彼らが自ずと大仰に演じる別離のさまを見続けた。
イギリスの女の子が数人、わめきこそしないが、時おり短い袖で顔を拭いつつ、頬に赤い筋ができるほどに涙を流して、恋人にハンカチを振っていた。すっかりしょげ返って俯いている者や、目を押さえてバスから遠ざかっていく者もあった。それとは一見対照的に、タイヤに足をかけてバスの窓のところまでよじ登り、大声で誰かに話しかけては笑う、賑やかな娘もいた。
バスの中では、誰もが、一時も笑顔を絶やすことなく、別れの場を盛り上げようとしていた。
わたしとて、それに抗ったわけではない。今日ここで別れていく人たちとは、おそらく、たがいに二度と会うことはできないだろうし、もし誰かと会うことができるとしても、この十日間のような条件の元に会うわけにはいくまい。誰もがそう思っていたはずだった。
 バスには乗ったものの、ほとんどの者がなかなか座ろうとせず、窓にもたれて手を振ったり、頷いたり、ウィンクしたりしていた。発車する際に危険だから、各自自分の座席につくように、とたびたび注意がなされたが、それに従う者は少なかった。
バスを取り巻いていたイギリス人たちが、やがて、急に数歩退くのが見えた。エンジンが響きを立てて、発射時のあの最初の大きな振動に、うしろ髪を引かれたように席に押しつけられた時、バスがとうとう動き出したのだとわかった。「ああ、……」という声が口々に上がり、どよめきとなった。手を振っていた人たちは、痙攣したように、いっそう激しく手を振った。掌がガラスに擦れて、叫び声のような音を立てた。
手こそ振らなかったが、わたしも立ち上がって後ろを見た。道路いっぱいに広がって、手やハンカチを振っている人たちの姿は、すでに遠かった。
そういうさまを目路に収めながら、他の人たちに対して、わたしは内心、優越感に似たものを抱いた。今頃になってまで、未練がましく手を振り続けて嘆く人たちとは、わたしは明らかに異なっているはずだった。
昨晩のあの成功をわたしは信じていた。すべてはきっぱりと終わったと信じていた。わたしの心を引き留めるようなものは、もう、なにひとつ残ってはいないはずだった。

遠ざかっていく路上で、誰かが、両手を大きく振りながら、何度も飛び跳ねているのが目にとまった。
と同時に、予想だにしなかったことが内部に生じた。
ふいに、わたしは思い出したのだ。
昨日の日中、住所と名前を書いて渡してくれるようにと、あの娘に頼まれたにもかかわらず、それをわたしはすっかり忘れていたのだった。
ああ、……と、さっきの皆の嘆声に遅れて、わたしはひとりで声を洩らした。
なにかがわたしの中で崩折れていくようだった。娘の昨日のいろいろな仕草や微笑みがいっぺんにわたしの中のどこかから湧きあがって、口や目から溢れ出るようだった。
彼女が来ないからいけないんだ、とわたしは考えた。
しかし、わたしたちと同じように今日ここを去って、家へ帰り、明日からまた働くのだと娘が言っていたのを思い出して、ひょっとしたら、皆がバスのところに集まっていた時、彼女は荷物の整理でもしていたのかもしれないと思った。皆から離れてぼんやり座ってなどいないで、あの時、彼女を探すべきだったのだ、と思った。

(第24声 続く)



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