2017年10月30日月曜日

『シルヴィ、から』 55

 複声レチタティーヴォの連続のみから成るカンタータ叙事詩
 [1982年作]   

  (第二十三声) 9

  (承前)

 長い間、わたしはシルヴィを意識し続けた。音楽は次々と替わり、踊りの輪は、わたしの前を、わたしとシルヴィの間を、すでに幾度廻ったか知れなかった。
その間、わたしは座り続けたままだったが、わたしにとって彼岸にもあたる向かいの椅子の並びにあって、シルヴィもまた、立ち上がる気配を見せなかった。踊っている人たちの動きの隙に彼女の姿が見え隠れすることや、室内がやや薄暗くなっていることもあって、シルヴィがどのような顔をしているかは、わたしのところからはわからなかった。そして、顔のさまを掴めない以上、彼女の心の状態など知る由もなかった。
「最後のダンスです。皆さん、いよいよ最後ですよ」
 声が上がると、ざわめきが起こった。近くにいた引率の教師がわたしに、「さあ、最後なんだから、きみも踊ったらどうだい?」と言った。 
 それに頷いて、わたしはようやく立ち上がった。壁づたいに歩いてシルヴィのところまで行った。
音楽が鳴り出し、崩れていた踊りの輪がかたちを取り直した。
シルヴィの前にわたしは立ち止った。
彼女は片手で顎を支えて、俯いていた。純白の服に赤いスカート、その上に黒い大きな前掛けをつけていたが、これは彼女の郷里の衣装であると見えた。
シルヴィは顔を上げた。わたしは彼女の目を求めた。
視線と視線がたがいに長い渦のように回転しながら、しっかりと絡み合って動きを止めた瞬間、たとえ一刹那であれ、わたしはシルヴィの時間を確かに掴みとめたと感じた。昨晩の就寝時の決意、今日という最後の日のために設けたわたしの目的が、すべて、この一瞬のうちに成就されたと感じられた。わたしがシルヴィの眼差しを捉えているばかりでなく、シルヴィもまたわたしの眼差しを捉えていた。
シルヴィは、この一瞬にあって、逃れようもなくわたしを見つめていた。
わたしは勝ったのだ。
シルヴィというこの謎は、もう、わたしから離れられないに違いなかった。この一瞬の彼女の眼差しを心に持ち続けるかぎり、シルヴィはわたしのものであり続けるに違いない。
わたしの心には余裕が生まれた。
すべては終わり、しかも、成功はわたしの手中にあった。
もう、後はどうなってもかまわない。
シルヴィがこれからどういう態度に出ようと、それらすべては座興ほどの意味も持たない。決定的な出来事はすでにつくり上げられてしまったのだ。
わたしは微笑みを浮かばせた。片手を差し伸べて、声をかけた。
「踊りませんか?」
 シルヴィは首を振って、その気がないことを示した。首を振るだけでは足りないと思ったのか、顎を支えていた手を離して、二三度軽く振った。
わたしは、静かに、なにも言わずに彼女の前を離れた。
体裁を保つために、近くにいた他の女の子にも声をかけてみたが、ここでもわたしは断られた。
「ごめんなさい。わたし、もう疲れちゃったの」
とその女の子は言い、心持ち、肩を持ち上げる素振りをした。
微笑んでそれに頷くと、わたしは向き直って、ふたたびシルヴィの前を通り、戸外へと出た。

 外は肌寒かった。薄雲が空を覆っているらしく、ところどころにしか星が見えなかった。
あたりを歩いてみると、敷き詰められた小石が足の下で音を立てた。その音が、聞こえてくる踊りの曲や部屋のざわめきなどとは、全く異質なものに感じられた。
 冷たい風がふいに立って、わたしの腕と体との間を静かにすり抜けて行った時、どことも知れぬ夜の街で、女性を抱きしめて街灯の下に立ち尽している自分の姿が、突然鮮やかに心の中に浮かび上がった。
厚い毛の外套の中にその女性とともに包まって、夜の寒さに耐えながら、わたしたちは長い接吻をしているのだった。
時おりちらつく街灯の焔が、寒さをいっそう募らせるようだった。夜気は湿りを次第に増し、まもなく冷たい雨か雪が降り出すかと思われた。雪ならばともかく、雨や霙が滲み透るのを防ぐことはできないだろうと考えながら、わたしは外套の濃紺の生地に時々目を走らせた。
わたしたち二人は、平らな石の敷き詰められた街路の上に立っていたが、そういう歩みやすい道を、まもなく、ひとり離れることになる、とわたしは予感しているようだった。
 幻はすぐに消えたが、集会室の向かいにある礼拝堂の前の階段に腰を下して、わたしは、この幻のイメージを何度も反芻した。
幻の中でわたしが抱いていた女性が、シルヴィでもなく、あの娘でもなく、これまで会った他のどんな女性たちとも違うことは確かだった。
その女性の顔をはっきりとは覚えていなかったが、現実に出会えばすぐにそれとわかるほどに、彼女の本質を掴み得てはいた。シルヴィのようにわたしにとって決定的ななにかを持つ新しい女性が、やがて現実に現われるかもしれない。そう考えることで、わたしは幻の反芻をやめた。
 後になってわたしは、この幻を、突然甦った前世の記憶の一端だと信じるようになった。幻の中の女性についてのわたしの神話は、崩れるどころか、より堅固になった。前世で結ばれていた間柄なら、たとえふたたび結ばれることがないとしても、現世でもなんらかの特別の関わりを持たざるを得ないに違いないと思われたからだった。

(第二十三声 終わり)



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