表現ということを
ぼくは馬鹿にしている
かなり
ひどくね
それがどうでもいいことなのだと
もう
とうに答えを出してある
だいたい
どこまでいっても
出来あいの既製品にすぎない
ことばや
色や
かたちなどを
ようするに
組み合わせ続けるだけで
なにかやらかしたかのように思う幼児性が
どうかしている
かといって
そんな組み合わせを峻拒し続けようとするのも
認識や意思や行為の
出来あいのものでいっぱいの倉庫の中で
既成品のひとつの「峻拒」を選んで
これ
今の気分に似合ってるかしら?
と
女の子みたいにプチ高揚しちゃっているだけ
どうかしている
なんにもしなくて
いいのにね
+
なんにもしないぞ
なんて
思わなくても
いいのにね
ヘンに方向づけをし
決めてしまうと
すぐに
観念に支配されてしまう
ことばにもね
危ない
危ない
だいたい
表現なんて
どれもこれも
表現したいものそのものじゃないぞ
ありえないぞ
というのが前提だから
嘘じゃん?
すべての表現って?
嘘
ってのが
前提なのは大人の常識でしょ?
表現についてはさ
とか
なんとか
反論してくる人も
いるよね
この前も居た
だから
なぁんだ
嘘
だって
わかってるんじゃない?
あなた?
あなた?
嘘に嘘を重ねて
どこか
そんなに行きたいところ
あるの?
聞いたら
返って来なかったよ
いい答え
ばかな人は
生きていくには
しかたがないじゃないの
とか
なんとか
答えてくるんだけど
その人
そんなにばかじゃ
なかったんだ
ね
嘘に嘘を重ねていけば
構造が多層的にかたちづくられて
複構造的に真に到達できる
とか
なんとか
言い逃れは
ま
できるんだけれど
ね
それだって
仮定
だよね?
そんな仮定に
あなた
一生賭けるんだね
っていう
問いとかを
使わなかったなぁ
今回は
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